第4話「追放の決定と家族の裏切り」
ルクレール伯爵エドワードの書斎は、いつも威厳に満ちた空間だった。
壁一面を覆う革装丁の書籍、重厚な黒檀の机、そして代々受け継がれてきた家宝の数々。この部屋は、ルクレール家三百年の歴史と誇りを象徴する場所でもあった。
しかし今朝、その神聖な空間に漂っているのは、重苦しい沈黙だけだった。
「セレスティア、座りなさい」
父エドワードは机の向こうから、娘を見つめていた。五十歳を過ぎた彼の顔には深い皺が刻まれ、一夜で十歳は老けて見える。
グレーの髭は丁寧に手入れされているものの、その目には疲労と困惑の色が濃く表れていた。
セレスティアは指定された椅子に腰を下ろした。父娘の間に置かれた机が、まるで法廷の被告席と裁判官席のような距離感を作り出している。
「昨夜の舞踏会での出来事は、すでに王宮中の知るところとなっている」
エドワードの声は低く沈んでいた。普段の威厳ある口調とは違い、どこか諦めのような響きがあった。
「そして今朝、王太子殿下から正式な通達が届いた」
机の上には、王室の封蝋が押された重厚な羊皮紙が置かれている。その内容は、読まなくても予想できた。
「セレスティア・ルクレール嬢の辺境追放を命ずる。場所はケースラント村。期間は無期限」
一語一語が、セレスティアの心に重くのしかかった。無期限。つまり、永久追放ということだった。
「父上……私は……」
何か弁明しようとしたが、エドワードが手を上げて制した。
「言い訳は聞きたくない。事実として、お前は王太子殿下の信頼を失い、婚約を破棄された。その結果として追放を命じられた。それだけだ」
父の言葉は冷酷だった。娘の無実を信じようとする気配すら感じられない。
「でも父上、私は本当に……」
「セレスティア!」
エドワードが拳で机を叩いた。書類やペン立てが跳ね上がり、インク壺が危うく倒れそうになる。
「お前の行動は、ルクレール家の名誉を著しく傷つけた。三百年続く我が家の歴史に、汚点を残したのだ」
「その責任を取って、おとなしく追放を受け入れろ。これ以上、家の恥を晒すな」
セレスティアは愕然とした。父は最初から、彼女の言い分を聞く気などなかった。
娘の無実を信じるより、王室との関係を維持することの方が重要なのだ。
「わかりました、父上」
セレスティアは静かに答えた。もう何を言っても無駄だと悟ったのだ。
「ただ、最後に一つだけお聞きします。私は本当に、父上の娘だったのでしょうか?」
その問いかけに、エドワードの表情が微かに動いた。しかし、彼は何も答えなかった。
沈黙が部屋を支配する。時計の針の音だけが、やけに大きく響いていた。
「……馬車は午後には用意できる。それまでに荷物をまとめておけ」
結局、父は娘の問いに答えることはなかった。その態度こそが、セレスティアへの答えだった。
書斎を出たセレスティアは、廊下で母イザベルと弟アルバートに出会った。
二人とも、彼女を待っていたようだった。しかし、その表情は複雑で、手放しに同情的とは言えなかった。
「セレスティア……」
母イザベルは四十代半ばの美しい女性だった。セレスティアの美貌は、間違いなく母譲りのものだった。
しかし、その美しい顔は涙で腫れ上がり、一夜で憔悴しきっている。
「お母様……」
セレスティアが近づこうとしたとき、弟のアルバートが間に割って入った。
「姉上、僕たちはどうすればいいんですか」
十六歳の弟は、怒りと困惑で顔を紅潮させていた。
「姉上の不始末のせいで、僕たちルクレール家全体が疑いの目で見られることになる。王立学院でも、もう以前のように過ごすことはできません」
アルバートの言葉は正論だった。貴族社会では、一人の不祥事が家族全体の名誉に関わる。
「学院の友人たちも、僕を避けるようになるでしょう。将来の出世にも響くかもしれない。なぜ、なぜこんなことになったんですか」
弟の目には涙が浮かんでいた。しかし、それは姉への同情の涙ではなく、自分の将来への絶望の涙だった。
セレスティアは、胸が張り裂けそうな思いだった。
アルバートを守るために演技を続けてきたのに、結果的に彼を傷つけることになってしまった。皮肉な運命だった。
「アルバート、お前はなんということを」
母イザベルが息子を叱責する。しかし、その声には力がなかった。
「でも、お母様も同じことを考えているんでしょう?」
アルバートが振り返って母を見つめる。
「僕たちは被害者なんです。姉上の勝手な行動の」
「アルバート……」
イザベルは何も言い返せなかった。息子の言葉が真実を突いているからだった。
彼女自身も、娘のことを完全に信じているわけではない。愛しているが、同時に迷惑をかけられたという思いもある。
「お母様、私のことはもう忘れてください」
セレスティアが静かに言った。
「アルバートの言う通りです。私がいることで、皆さんに迷惑をかけるだけ。辺境で静かに暮らしますから」
「セレスティア、私は……私は……」
母が何か言いかけたが、結局言葉にならなかった。
娘を庇いたい気持ちと、家族の将来を守りたい気持ちの間で揺れている。
最終的に、彼女は何も言わずにその場を去った。背中で泣いているのが分かったが、セレスティアを慰めることはなかった。
「姉上、辺境でも元気で」
アルバートが形式的な別れの言葉を告げて、母の後を追って行く。
廊下に一人残されたセレスティアは、深いため息をついた。
家族からも見捨てられた。これで本当に、王都には誰も味方がいなくなった。
自室に戻ったセレスティアは、旅支度を始めた。
辺境での生活に必要な物だけを選別し、トランク一つに収めなければならない。
まず手に取ったのは、幼い頃から愛読していた本たちだった。
詩集、歴史書、そして魔法学の基礎書。これらは新しい土地でも、きっと彼女の支えになってくれるだろう。
次に、実用的な物を選んだ。裁縫道具、薬草学の知識書、そして母から教わった料理のレシピを書き留めたノート。
辺境では、これらの技能が生死を分けるかもしれない。
ドレッサーの引き出しを開けると、子供の頃の写真が出てきた。
家族四人で撮った古い肖像画。まだ幼かったアルバートを膝に乗せ、両親に挟まれて笑っている自分の姿。
あの頃は、本当に幸せな家族だった。父は優しく、母は愛情深く、弟は甘えん坊で可愛かった。
いつから、こんなにもぎくしゃくした関係になってしまったのだろうか。
写真を胸に抱きしめると、涙がぽろぽろと落ちた。
もう二度と、あの幸せな時間は戻ってこない。家族との温かい思い出も、今となっては遠い昔の夢のようだった。
宝石箱を開けると、母から受け継いだ思い出の品々が並んでいる。
祖母のカメオのブローチ、誕生日にもらった真珠のイヤリング、そして母の形見のペンダント。
これらも辺境には相応しくないだろう。きっと売り払って生活費にするか、盗賊に奪われるかのどちらかだ。
それでも、母のペンダントだけは手放せなかった。小さなサファイアが埋め込まれたシンプルなデザインだが、セレスティアにとって最も大切な宝物だった。
「お嬢様、お荷物の準備はいかがですか?」
侍女マーサが心配そうに声をかけてくる。彼女の目も赤く腫れていた。
「ありがとう、マーサ。もうすぐ終わるわ」
セレスティアは微笑んで答えたが、その笑顔は悲しみに満ちていた。
「お嬢様、私も一緒に参りましょうか?」
マーサが申し出たが、セレスティアは首を振った。
「あなたには、ここで新しい主人に仕えてもらいたいの。きっと素敵な家族に巡り会えるわ」
「でも、お嬢様お一人では……」
「大丈夫よ。私はもう十八歳。一人で生きていけるわ」
強がってはいるものの、実際には不安で仕方がなかった。
令嬢として何不自由なく育てられた彼女に、自立した生活ができるだろうか。
それでも、マーサを巻き込むわけにはいかない。彼女には、安定した生活を送ってもらいたかった。
午後になり、迎えの馬車が到着した。
辺境への護送用の、質素で頑丈な作りの馬車だった。セレスティアが今まで乗っていた豪華な馬車とは、雲泥の差がある。
「これがお嬢様の……」
マーサが言葉を詰まらせる。
「大丈夫よ。きっと乗り心地は悪くないでしょう」
セレスティアは努めて明るく答えたが、内心では不安が募っていた。
この馬車で三日間、辺境まで旅をしなければならない。座席はごつごつしていて、クッションもほとんどない。
屋敷の正面玄関には、見送りの人々が集まっていた。
といっても、その数は驚くほど少なかった。使用人の半分以上は姿を見せず、集まったのも義務的な挨拶のためだけのようだった。
「お嬢様、お元気で」
「辺境でも、お身体にお気をつけて」
形式的な別れの言葉が交わされるが、そこに温かさは感じられない。
皆、一刻も早くこの気まずい時間を終わらせたがっている。
父エドワードは書斎から出てこなかった。最後まで、娘の顔を見ることを拒んだのだ。
母イザベルだけは玄関まで見送りに来たが、その顔は涙で腫れ上がっている。
「セレスティア、私……私は……」
何か言いたそうにしている母だったが、結局言葉にすることはできなかった。
娘を庇いたい気持ちと、家族の将来を案じる気持ちの間で引き裂かれている。
「お母様、ありがとうございました」
セレスティアは母を抱きしめた。これが最後かもしれない抱擁。母の体温と香水の匂いを、記憶に刻み込んでおきたかった。
「元気でいてください。アルバートのことも、よろしくお願いします」
母は泣きながら頷いたが、「一緒に来てはだめか」とは言わなかった。
弟アルバートは、最後まで姿を現さなかった。きっと自分の部屋で、複雑な気持ちを抱えながら隠れているのだろう。
それでも構わない。彼なりの優しさなのかもしれない。
「では、参りましょう」
護送を担当する騎士が、事務的な声で促した。
王室直属の騎士らしく、彼の態度は冷淡だった。セレスティアのことを犯罪者か何かのように扱っている。
馬車に乗り込む前に、セレスティアは振り返って屋敷を見上げた。
石造りの重厚な建物、美しく手入れされた庭園、そして家族の思い出が詰まった窓の数々。
十八年間を過ごした我が家。もう二度と帰ってくることのない場所。
二階の窓から、母がハンカチを振っているのが見えた。最後の別れの合図だった。
「お嬢様、お時間です」
騎士が急かすように声をかける。
セレスティアは最後に一度だけ手を振り、馬車に乗り込んだ。
重い扉が閉じられると同時に、馬車がゆっくりと動き出す。
窓から見える屋敷が、徐々に小さくなっていく。そして、角を曲がった瞬間、完全に見えなくなった。
「これで、本当にお別れね」
小さくつぶやいた言葉は、誰にも聞こえなかった。
馬車の中は狭く、座席も硬い。長旅になることを考えると憂鬱になるが、文句を言う相手もいない。
護送の騎士は無口で、話しかけても返事をしようとしない。完全に一人ぼっちの旅だった。
王都の街並みが窓の外を流れていく。
活気ある商店街、美しい貴族街、そして庶民が住む下町。全ての景色が、セレスティアの人生から永遠に失われていく。
しかし、不思議なことに絶望感はなかった。
確かに悲しみと不安はある。でも、それ以上に「ようやく解放される」という安堵感の方が大きかった。
もう悪役令嬢を演じる必要はない。もう家族の期待に応える必要もない。
辺境では、本当の自分として生きることができる。
それは、ある意味で自由への扉でもあった。
「新しい人生の始まり」
セレスティアは小さく微笑んだ。涙はまだ乾いていなかったが、その瞳には希望の光が宿り始めていた。
馬車は王都の城門をくぐり、いよいよ辺境への道のりに入った。
三日後、彼女はケースラント村という未知の土地に到着する。そこで待っているのは、困難な生活か、それとも新たな可能性か。
それは、まだ誰にも分からなかった。
ただ一つ確かなのは、セレスティア・ルクレールの本当の人生が、今まさに始まろうとしているということだった。
窓の外では、見慣れた王都の風景が遠ざかっていく。
そして、未知なる辺境の大地が、彼女を待っていた。




