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第3話「偽りの聖女と真実」

 翌朝、セレスティアは侍女マーサによって起こされた。


 いつもより早い時刻だったが、今日は特別な日だ。王都を去る日。そして、これまでの人生に完全に別れを告げる日でもある。


 窓の外では、すでに王宮の使者が到着していた。追放の正式発表と、セレスティアの身柄確認のために派遣されたのだろう。


 黒い制服に身を包んだ騎士たちが、ルクレール伯爵邸の門前で馬を下りている。彼らの表情は冷たく、まるで犯罪者を連行するときのようだった。


「お嬢様、身支度を」


 マーサが心配そうに声をかける。昨夜から彼女の目は赤く腫れていた。きっと一睡もできなかったのだろう。


 セレスティアは簡素な旅装に着替えた。もう絢爛豪華なドレスを着る機会はない。シンプルな茶色のワンピースに革のブーツ、そして薄手のマントが彼女の新しい装いだった。


 鏡を見ると、そこには昨日までの華やかな伯爵令嬢とは全く違う女性が映っている。


「これが本当の私の姿なのかもしれないわね」


 小さくつぶやいたとき、部屋のドアがノックされた。


「セレスティア様、お客様がお見えです」


 メイドの声が震えている。この状況で訪問者とは、一体誰だろうか。


 応接室に降りていくと、そこには思いもよらない人物が座っていた。


 マリアンヌ・ブルー。昨夜、新たな王太子妃となることが発表された新聖女その人である。


 白いシンプルなドレスに身を包み、謙虚な微笑みを浮かべて立ち上がる。しかし、セレスティアは彼女の瞳の奥に宿る何かを見逃さなかった。


「おはようございます、セレスティア様。お忙しい朝に失礼いたします」


 丁寧な口調だが、どこか芝居がかっている。まるで台本を読み上げているような、不自然な抑揚があった。


「マリアンヌ様、こんな早朝にわざわざなんのご用件でしょうか」


 セレスティアも表面上は冷静に応対する。しかし内心では、この訪問の真の目的を測りかねていた。


「実は、お別れのご挨拶にと思いまして。それと、これまでのことについて、少しお話をしたくて」


 マリアンヌがそう言いながら、使用人たちに向かって手をひらひらと振った。


「少し、お二人だけでお話を」


 使用人たちが部屋を出て行くと、マリアンヌの表情が一変した。


 謙虚で慈悲深い聖女の微笑みが消え、代わりに勝ち誇ったような、計算高い笑みが浮かんだ。


「お疲れ様でした、セレスティア様。長い間、本当にお疲れ様でした」


 その声には、もはや敬意のかけらもない。むしろ、勝利者が敗北者に向ける憐憫と侮蔑が込められていた。


「素晴らしい演技でしたわ。完璧な悪役令嬢ぶりに、王宮中が騙されていました。でも、もうその役目は終わりですのね」


 セレスティアの背筋に冷たいものが走った。


 マリアンヌは知っている。彼女が演技をしていたことを、全て知っているのだ。


「あなた、一体……」


「私? 私はただの平民出身の聖女よ。リシャール殿下に見初められた、幸運な女性」


 マリアンヌが甘い声で答えるが、その瞳は蛇のように冷たかった。


「でも、あなたの演技がなければ、私がここまで上り詰めることはできなかったでしょうね。感謝していますわ」


 セレスティアの頭の中で、様々な記憶の断片が繋がり始めた。


 一年前のあの日。王太子リシャールから突然呼び出されたときのことを、はっきりと思い出す。


 それは秋の夕暮れ時だった。王宮の奥深く、誰も近づかない古い書庫で二人は密会した。


『セレスティア、君に頼みがある』


 リシャールの表情は深刻だった。普段の人懐っこい笑顔はどこにもなく、まるで別人のような冷たい目つきをしていた。


『悪役令嬢を演じてほしい。高慢で冷酷で、他人を見下すような女性を』


 突然の要求に、セレスティアは困惑した。


『なぜ、そのようなことを? 私たちは婚約者同士なのに』


『理由は後で説明する。今は、ただ俺の言う通りにしてくれ。でなければ……』


 リシャールが取り出したのは、一枚の写真だった。そこには、セレスティアの弟アルバートが写っていた。


 王立学院の制服を着て、友人たちと楽しそうに話している何気ない日常の一コマ。しかし、その写真が脅迫の道具として使われることは明白だった。


『君の大切な家族に、なにかあっては困るだろう?』


 その言葉で、セレスティアは全てを理解した。これは脅迫だった。家族の安全と引き換えに、自分の人格を売り渡せという取引。


『もし君が言うことを聞かなければ、アルバート君の学院生活が……不幸な事故で終わることになるかもしれない』


 リシャールの声は、氷のように冷たかった。この男は本気で言っている。愛する弟を危険に晒すくらいなら、彼女は何でもするつもりだった。


『わかりました。私は、どのような役を演じればよろしいのでしょうか』


 その日から、セレスティアの苦痛に満ちた演技生活が始まった。


 本来の心優しい性格を封印し、高慢で冷酷な悪役令嬢を演じ続ける日々。


 平民を見下し、下級貴族を馬鹿にし、常に他者を見下すような態度。それは彼女の本性とは正反対の行動だった。


 毎晩、一人で部屋に帰っては泣いていた。


 今日もまた、誰かを傷つけてしまった。本当はそんなことを言いたくないのに、家族を守るために言わなければならない。


 その苦痛は日に日に増していき、セレスティアの心を蝕んでいった。


『なぜ私がこのようなことを? 一体なんのために?』


 リシャールに詰め寄ったこともあった。しかし、彼は曖昧な返事をするだけで、真の理由を明かすことはなかった。


『時が来ればわかる。今は、ただ演じ続けてくれ』


 そして今、ついにその「時」が来たのだ。


 マリアンヌの登場と共に、セレスティアの役目は終わった。彼女は用済みとなり、公衆の面前で婚約破棄され、辺境に追放されることになった。


「あなたが……黒幕だったのね」


 セレスティアが震え声で問いかけると、マリアンヌは満足そうに頷いた。


「ご名答。全ては私の計画通りよ。リシャール殿下を手に入れるために、どうしてもあなたには消えてもらう必要があったの」


「一年前から……計画していたというの?」


「もちろんよ。最初から、あなたを陥れるために仕組んだこと。リシャール殿下に『セレスティアに悪役を演じさせろ』と提案したのも私」


 マリアンヌの告白に、セレスティアは愕然とした。


 全ては罠だったのだ。家族を人質に取られ、嫌々ながらも悪役を演じ続けた一年間。その全てが、この女性の手のひらの上で踊らされていたに過ぎない。


「でも、なぜそこまでして……王太子妃の地位が欲しかったの?」


「平民の私が王族になれる唯一の道よ。聖女の力さえあれば、出自など関係ない。でも、あなたのような名門の令嬢がいては、私の価値が霞んでしまう」


 マリアンヌの瞳に、狂気にも似た野心の炎が燃えていた。


「だから計画したの。あなたを悪役に仕立て上げ、私を清楚で謙虚な聖女として対比させる。そうすれば、だれもが私の方を選ぶはず」


 その計算高さに、セレスティアは背筋が凍った。


 これほどまでに緻密で残酷な計画を、平民出身の少女が一人で練り上げたのだ。マリアンヌの知能と野心の高さは、恐ろしいほどだった。


「あなたの聖女の力も、偽物なのでしょうね」


 セレスティアが冷静に問いかけると、マリアンヌは肩をすくめた。


「半分は本物よ。確かに聖女の血筋ではあるの。でも、その力を使ってなにをするかは、私次第」


 彼女は立ち上がり、窓辺に歩いて行った。朝の光が差し込む中で、その横顔は美しくも邪悪に見えた。


「聖女の力を使えば、人の心を操ることもできる。リシャール殿下が私に夢中になったのも、その力のおかげ。まあ、最初だけですけどね。今は本当に私を愛してくださっているわ」


 恐ろしい告白だった。聖女の神聖な力を、個人的な野心のために悪用している。これは神への冒涜とも言える行為だった。


「王宮の人々も、私の力に魅了されているの。清楚で謙虚な聖女マリアンヌ。みんな、私のことをそう呼んでいるわ」


 マリアンヌが振り返ると、その顔には悪魔のような笑みが浮かんでいた。


「でも本当は、私はあなたよりもずっと高慢で野心家。ただ、それを隠すのが上手なだけ」


「なぜ、そのようなことを私に話すの? もう私は追放される身。あなたの邪魔をすることもできないのに」


 セレスティアの問いに、マリアンヌは楽しそうに笑った。


「敗者に真実を教えるのは、勝者の特権でしょう? それに、あなたには感謝もしているの。完璧な悪役を演じてくれたおかげで、私の計画は成功した」


 その言葉には、勝利者の余裕と、敗者への侮蔑が込められていた。


「これからも、私は完璧な聖女を演じ続ける。そして、いつか王妃になったときには……この国を私の思い通りに変えてみせるわ」


 マリアンヌの野望は、王妃の地位を得ることだけではなかった。国全体を支配し、自分の理想通りに作り変えようとしている。


「あなたのような人が王妃になったら、この国の民はどうなるの?」


「民のことなど、どうでもいいわ。大切なのは権力と地位。美しく着飾り、贅沢な暮らしを送り、すべての人に頭を下げさせる。それが私の夢よ」


 その瞬間、セレスティアは確信した。この女性は、決して真の聖女ではない。聖女の力を持っているかもしれないが、その心は悪魔そのものだった。


「リシャール殿下も、あなたに騙されているのね」


「最初はそうだったけど、今は違う。殿下は本当に私を愛してくださっている。私の美しさと、聖女としての価値を理解してくださったの」


 マリアンヌが自信満々に答える。しかし、セレスティアには疑問があった。


 本当にリシャールは彼女を愛しているのだろうか。それとも、これもまた彼女の聖女の力による操作なのだろうか。


「さて、そろそろお暇しなければ。王宮でやることがたくさんあるの。新しい王太子妃としてね」


 マリアンヌが立ち上がり、ドアに向かって歩いていく。その足取りは軽やかで、まるで勝利の凱旋行進のようだった。


「最後に一つ。辺境での生活、頑張ってね。でも、二度と王都には戻ってこないでちょうだい。私の邪魔をされると困るから」


 その言葉を最後に、マリアンヌは部屋を出て行った。


 残されたセレスティアは、しばらくの間呆然と立ち尽くしていた。


 全ての真実が明らかになった今、彼女は何を感じていただろうか。怒り、悲しみ、それとも安堵だろうか。


 マリアンヌが去った後、セレスティアは深い孤独感に包まれた。


 真実を知ったところで、何も変わらない。彼女は依然として追放される身であり、誰も彼女の無実を信じてはくれないだろう。


「お嬢様、お友達がお見えです」


 メイドの声に振り返ると、応接室には数人の令嬢たちが立っていた。幼馴染のイザベラ、学院時代の友人リアナとセシリア。


 しかし、彼女たちの表情には昨日までの親しみやすさはなかった。


「セレスティア……私たち、昨夜のことを聞いて…」


 イザベラが言葉を詰まらせる。その目には困惑と、どこか距離を置こうとする意志が見えた。


「もう私たち、お付き合いを続けるのは難しいと思うの。あなたの評判が……私たちの家族のことも考えなければならないし……」


 次々と告げられる絶交宣言。


 昨日まで親友だった人々が、手のひらを返したように彼女から離れていく。これが貴族社会の現実だった。


「わかったわ。皆さんのお立場もあるでしょうから」


 セレスティアは冷静に答えた。もう驚きもしない。昨夜の出来事で、人間関係の脆さを痛いほど理解していた。


 友人たちが去った後、屋敷は再び静寂に包まれた。


「お嬢様、お父様がお呼びです」


 使用人の声に、セレスティアは重い足取りで父の書斎に向かった。いよいよ、家族との最後の対話の時間が来たのだ。


 そして、彼女の新しい人生が始まろうとしていた。全ての真実を知った今、セレスティアは何を思い、どんな決意を固めるのだろうか。


 辺境での生活が、彼女にとって本当の試練となるのか、それとも真の解放となるのか。


 それは、これから始まる新しい章で明らかになるだろう。

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