第2話「追放の夜、そして夜明け」
会場に雷が落ちたような静寂が訪れた。そして次の瞬間、どよめきが爆発的に広がった。
「婚約破棄?」
「まさか……」
「一体なにがあったというの?」
セレスティアの頭の中が真っ白になる。
婚約破棄。公衆の面前での宣告。これは彼女にとって社会的な死刑宣告に等しかった。
貴族社会において、婚約破棄された女性の立場がどれほど悲惨なものかは、誰もが知っている。
手足が震え始めた。しかし、数百人の前で醜態を晒すわけにはいかない。セレスティアは必死に平静を装った。
「理由をお聞かせください、殿下」
どうにか声を絞り出すセレスティア。しかし、その声は普段の凛とした響きとは程遠い、か細いものだった。
「君は高慢で冷酷、民のことなど考えない女だ。平民を見下し、下級貴族を馬鹿にし、常に他者を軽蔑の目で見ている。そのような女性が未来の王妃になることは、この国のためにならない」
リシャールの言葉は、会場の隅々まではっきりと響いた。一語一語が、セレスティアの心を鋭い刃のように貫いていく。
確かに彼女は高慢な態度を取っていた。平民を見下すような発言もしてきた。
しかし、それは全て彼の命令によるものだった。
『君には悪役令嬢を演じてもらいたい』その言葉と引き換えに、家族の安全が保証されるはずだったのに。
なのに今、その演技を理由にして婚約破棄を宣告されている。これは裏切りだった。一年間もの苦痛に満ちた演技が、全て無駄になってしまった。
「具体的には、どのような……」
セレスティアが詳細を問いただそうとしたとき、リシャールが手を上げて彼女の言葉を遮った。
「君の悪行の数々は、すでに王宮の知るところとなっている。平民の少女に『身分をわきまえよ』と罵ったこと、孤児院への寄付を『無駄な施し』と嘲笑したこと、下級騎士を『血筋が卑しい』と侮辱したこと……」
次々と告発される「悪行」の数々。
しかし、セレスティアには心当たりのないものばかりだった。
確かに高慢な態度は演じていたが、そこまで酷いことは言っていない。これらは明らかに誇張された、あるいは捏造された証言だった。
「それは……」
弁明しようとしたが、会場のざわめきが激しくなった。もう誰も彼女の言葉に耳を傾けようとはしない。
「真の聖女であるマリアンヌ・ブルー嬢こそ、我が国に相応しい王妃となるでしょう」
リシャールが手を差し伸べると、会場の片隅から一人の女性が現れた。
マリアンヌ・ブルー。平民出身だが強力な聖女の力を持つと言われ、最近王宮に迎えられた少女だ。
清楚な白いドレスに身を包み、謙虚な微笑みを浮かべながら歩いてくる。
シンプルな白いドレスには装飾らしい装飾はないが、それがかえって彼女の清純さを際立たせていた。
金髪は簡素に三つ編みにされ、アクセサリーも十字架のペンダント一つだけ。セレスティアの豪華絢爛な装いとは対照的だった。
「マリアンヌ様、なんて慎ましやかで美しい方なの」
「あれこそ真の聖女のお姿ですわ」
会場からは感嘆の声が上がった。セレスティアは、マリアンヌの瞳の奥に一瞬だけ浮かんだ勝ち誇ったような光を見逃さなかった。
謙虚な微笑みの下に隠された、何か計算高いものを感じ取った。
「セレスティア嬢、長い間お疲れ様でした」
マリアンヌが丁寧にお辞儀をする。
表面上は礼儀正しいが、その声には微かな嘲笑の響きがあった。まるで勝利者が敗者に向ける憐憫のようだった。
会場がどよめき始める。最初は小さなささやき声だったが、徐々にその声は大きくなっていく。
「やはり悪徳令嬢の本性が現れたのね」
「自業自得じゃないかしら」
「可哀想だけど、あれでは王妃は務まらないわ」
「平民出身でも、聖女様の方がよほど品格がおありよ」
ひそひそと囁く声が、セレスティアの耳に痛いほど届く。
今まで笑顔で話しかけてきた令嬢たちが、手のひらを返したように冷たい視線を向けている。貴族社会の冷酷な現実が、彼女を容赦なく襲った。
「イザベラ……」
幼馴染の令嬢イザベラに助けを求めるような視線を向けたが、彼女は困ったような表情で目を逸らすだけだった。
他の友人たちも同じ反応。誰も彼女の味方になろうとはしない。
取り巻きだった令嬢たちも、さっと距離を取った。まるで疫病患者から逃げるように。
つい先ほどまで「セレスティア様」と慕っていた彼女たちが、今は蛇を見るような目で彼女を見ている。
「私は……私はなにも悪いことなど……」
何か言い返そうとしたが、言葉が出てこない。喉が詰まったように息苦しい。
この場で真実を叫んだところで、誰が信じてくれるだろうか。全ては証拠もない彼女の一方的な主張でしかない。
それに、本当に何も悪いことをしていないと言えるだろうか。
確かに高慢な態度は取っていた。人を見下すような発言もしていた。演技だったとはいえ、実際に傷ついた人がいるかもしれない。
「セレスティア嬢には、辺境での新しい生活を始めていただきます。ケースラント村という場所です。そこで心を入れ替え、人としての品格を身につけていただきたい」
リシャールの宣告は続く。
辺境への追放。それは貴族社会からの完全な追放を意味していた。
二度と王都の土を踏むことは許されない。社交界からの永久追放。
会場の貴族たちが、まるで見世物を見るような目で彼女を見つめている。憐憫、軽蔑、好奇心。
様々な感情が入り混じった視線が、セレスティアの全身を刺すように突き刺さった。
「では、お元気で」
リシャールがマリアンヌの手を取り、新しい婚約者として会場に紹介する。
会場は祝福の拍手に包まれた。しかし、その拍手がセレスティアには処刑台で響く太鼓のように聞こえる。
「おめでとうございます、王太子殿下」
「マリアンヌ様、素晴らしい」
祝福の声が会場に響く。新しい王太子妃への賛美。そして、追放される悪役令嬢への軽蔑。コントラストがあまりにも鮮明だった。
セレスティアは、最後の尊厳を保つために背筋を伸ばした。
ここで泣き崩れるわけにはいかない。ルクレール伯爵家の名誉のためにも、自分自身のプライドのためにも、堂々と退場しなければならない。
ゆっくりと踵を返す。
サファイアブルーのドレスの裾が、大理石の床を滑るように動いた。一歩一歩、会場の出口に向かって歩いていく。
背後から聞こえてくる嘲笑と憐憫の声が、彼女の背中を容赦なく襲った。
「やっと化けの皮が剥がれたわね」
「最初からなにかおかしいと思っていたの」
「平民出身の聖女様の方が、よほど王妃に相応しいわ」
その一言一言が、セレスティアの心に深い傷を刻んでいく。
しかし、彼女は決して振り返らなかった。涙が頬を伝っているが、それでも前だけを向いて歩き続ける。
「負けない」
小さな声でつぶやく。誰にも聞こえないほど小さな声だったが、その言葉には確固たる意志が込められていた。
「絶対に、負けない」
大理石の廊下に響く自分のヒールの音が、やけに大きく聞こえた。
まるで戦いの太鼓のように。これは敗北ではない。新しい戦いの始まりなのだ。
舞踏会場の重厚な扉が彼女の後ろで閉じられたとき、会場からは再び祝祭の音楽が聞こえてきた。
新しい王太子妃を祝う華やかな調べ。しかし、セレスティアの人生の音楽は、今まさに新しい楽章を奏で始めたところだった。
馬車で屋敷に戻る道中、セレスティアは窓の外に流れる王都の夜景をぼんやりと眺めていた。
きらめく街灯が星座のように美しく、行き交う人々の笑い声が聞こえてくる。
活気に溢れる商店街では、まだ明かりが灯っている店もある。噴水のある広場では、恋人たちが寄り添って歩いている。
今まで当たり前だった光景が、明日からは見ることができなくなる。
十八年間を過ごした故郷との別れ。それは想像以上に辛いものだった。
屋敷に到着すると、使用人たちの態度も明らかに変わっていた。
いつもなら恭しくお辞儀をして出迎えてくれるメイドたちが、今夜は目を合わせようともしない。廊下ですれ違う執事も、素っ気ない挨拶をするだけ。
もう彼女は「将来の王妃様」ではないのだ。ルクレール伯爵家の令嬢ですらない。明日からは、ただの追放者になる。
「お嬢様、お疲れ様でございました」
古参の侍女マーサが、いつもと変わらない穏やかな声で迎えてくれた。彼女だけは、セレスティアの幼い頃から仕えてくれている忠実な使用人だった。
「ありがとう、マーサ」
セレスティアは心からの感謝を込めて答えた。この状況で、変わらずに接してくれる人がいることがどれほど心の支えになるか。
「お嬢様、明日朝一番で追放の正式発表があるでしょう。準備はいかがですか?」
マーサが心配そうに尋ねる。その表情には、長年仕えてきた令嬢への深い愛情が宿っていた。
「ええ、荷物はほぼまとまっています。身軽に行こうと思って」
セレスティアは努めて明るく答えたが、マーサの目には涙が浮んでいた。
「お嬢様……本当に、本当にお疲れ様でございました」
その言葉に込められた深い意味を、セレスティアは理解していた。
マーサは全てを知っていた。彼女が演技をしていたことも、本当は心優しい女性だということも。
自室に入ると、セレスティアはドレスを脱いで普段着に着替えた。
鏡に映る自分の顔は、疲労でやつれて見える。この一年間の苦痛が、確実に彼女の心と身体を蝕んでいた。
ベッドに腰を下ろし、明日からの新しい人生について考える。
辺境のケースラント村。名前を聞いたこともない場所だった。どんな場所で、どんな人たちが住んでいるのだろうか。
不安はある。しかし、不思議なことに絶望感はなかった。むしろ、心の奥に小さな希望の光が灯っているのを感じる。
「もう演技をする必要はない」
そう思うだけで、肩の荷が下りたような気がした。一年間背負い続けてきた重いおもりが、ようやく外れるのだ。
辺境では、本当の自分として生きることができる。誰も彼女の過去を知らない場所で、新しいセレスティアとして人生をやり直すことができる。
窓の外では、既に空が白み始めていた。新しい一日の始まり。そして、セレスティア・ルクレールの真の人生の始まりでもあった。
机の上には、明日の旅に持参する荷物のリストが置かれている。
書物、薬草の知識書、裁縫道具、そして母から受け継いだ大切なペンダント。物質的なものは少ないが、これから必要なのは物ではなく、強い心だった。
「頑張ろう、セレスティア」
自分自身に向かって小さく声をかける。鏡の中の自分が、かすかに微笑んだような気がした。
明日から始まる新しい人生。それがどんなに困難で過酷なものであっても、今度は本当の自分として立ち向かってみせる。
もう嘘の仮面を被る必要はない。本来の心優しく強い女性として、新天地で生きていくのだ。
夜明けの光が部屋に差し込み始めたとき、セレスティアは静かに決意を固めた。これは終わりではない。本当の始まりなのだと。




