第11話「魔物襲撃と命の恩人」
読み書き教室を始めてから一週間が経った午後のことだった。
セレスティアはいつものように村の広場で子どもたちに文字を教えていた。今日は「家族」という言葉を教えている最中だった。
「『か』『ぞ』『く』で『家族』よ。みんなの大切な人たちのことね」
「セレス先生、僕のお父さんとお母さんも家族?」
「もちろんよ、トム。兄弟も、おじいちゃんおばあちゃんも、みんな家族」
子どもたちが嬉しそうに頷いている。そんな平和な午後の光景が、突然の恐怖に変わった。
村の外れから、けたたましい鶏の鳴き声が聞こえてきた。しかし、それは普通の鳴き声ではない。恐怖に震える、断末魔のような叫び声だった。
「なにかしら」
セレスティアが顔を上げた瞬間、村の入り口から黒い影が飛び出してきた。
それは狼のような形をしているが、通常の狼よりもはるかに大きく、目は赤く光っている。魔物だった。
「きゃああああ」
村人たちの悲鳴が上がる。
魔物は一匹ではなかった。続々と森から現れ、その数は十匹を超えている。これまでにない大規模な襲撃だった。
「子どもたち、私の後ろに隠れて」
セレスティアは咄嗟に子どもたちを自分の後ろに庇った。しかし、彼女に戦闘能力はない。
村人たちは慌てふためいて逃げ惑っている。
「家に逃げろ」
「戸締りをしっかりしろ」
大人たちは自分と家族の安全を確保するのに精一杯で、広場にいる子どもたちまで気を回す余裕はない。
魔物の群れは村の中央に向かってくる。その先頭にいるのは、他よりも一回り大きな個体だった。おそらく群れのリーダーだろう。
「セレス先生、怖いよ」
ルルが泣き声を上げる。他の子どもたちも恐怖で震えていた。
「大丈夫、きっとだれか助けに来てくれるから」
セレスティアは子どもたちを励ましたが、内心では絶望的な気分だった。
村人たちは皆逃げ惑い、戦える男たちも魔物の数の多さに圧倒されている。レオンはまだ見回りから戻っていない。
魔物たちが広場に侵入してきた。
先頭の大型個体がセレスティアたちに気づき、低いうなり声を上げる。その口からは牙が覗き、よだれが滴り落ちている。
「お願い、子どもたちだけは」
セレスティアが魔物の前に立ちはだかった。武器もなく、戦闘の経験もない彼女にできることは、自分の身体で子どもたちを守ることだけだった。
魔物が飛びかかろうと身構えたそのとき、村の外れから馬蹄の音が響いた。
レオンの到着まで、まだ時間がかかりそうだった。
セレスティアは子どもたちを守るために、必死に考えを巡らせた。魔物と戦うことはできないが、時間を稼ぐことはできるかもしれない。
「みんな、私が合図したら村長さんの家に走って。わかった?」
「でも、セレス先生は」
「私は大丈夫。みんなを守るのが先生の役目よ」
しかし、魔物たちはもう待ってくれなかった。
リーダー格の大型個体が低いうなり声とともに前進してくる。その鋭い爪と牙は、人間の身体など簡単に引き裂いてしまうだろう。
「来ないで」
セレスティアが手を広げて立ちはだかったが、魔物には通じない。
そのとき、子どもたちの中で最も年下のルルが、転んで膝を擦りむいてしまった。
「痛い、立てない」
「ルル」
セレスティアが振り返った瞬間、魔物が飛びかかってきた。
間一髪で横に飛んで避けたが、魔物の爪が頬をかすめ、血が流れる。
「きゃあ」
初めて味わう戦闘での恐怖に、セレスティアは声を上げた。
しかし、ルルがまだ立ち上がれずにいる。他の子どもたちも恐怖で動けなくなってしまった。
「みんな、早く」
セレスティアが再び叫んだ時、別の魔物が横から襲いかかってきた。
今度は避けきれない。鋭い爪が迫る。
覚悟を決めた瞬間、セレスティアの中で何かが目覚めた。
「子どもたちを、傷つけさせない」
強い意志とともに、彼女の身体から淡い光が放たれた。それは聖女の血筋に眠っていた、微弱な聖なる力の顕現だった。
光に触れた魔物がひるんだ。完全に撃退するほどの力ではないが、動きを鈍らせることはできた。
「今よ、走って」
子どもたちがようやく動き出す。ルルを抱えて、村長の家に向かって走っていく。
しかし、セレスティアの力はすぐに限界に達した。
微弱な聖女の力では、この数の魔物を相手にするには不十分だった。
「もう、限界」
力を使い果たし、その場に膝をついてしまう。
魔物たちが再び襲いかかろうとしたとき、ついにレオンが到着した。
「遅れて済まない」
レオンの声が戦場に響いた瞬間、空気が一変した。
黒い軍馬にまたがった漆黒の騎士が、まるで戦神の化身のように現れる。今日は兜をかぶっておらず、その端正だが厳しい顔立ちが露わになっている。
「セレスティア、子どもたちは無事か」
「はい、なんとか」
レオンが確認すると、即座に剣を抜いた。
魔物の群れは十三匹。通常なら複数の戦士で対処すべき数だが、レオンは躊躇しない。
「一匹残らず駆逐する」
宣言とともに、レオンが馬から飛び降りる。
最初に向かってきた魔物を、一刀両断で切り伏せた。その剣技は芸術的とも言える美しさがある。無駄な動きは一切なく、最短距離で急所を狙う完璧な技術。
二匹目、三匹目の魔物も瞬く間に倒される。
しかし、魔物たちも学習する。包囲するような陣形を取り、一斉に襲いかかってきた。
「包囲されても問題ない」
レオンが回転斬りで周囲の魔物を薙ぎ払う。
その動きは舞踊のようでもあり、嵐のようでもある。剣が描く軌跡が、銀の光となって魔物たちを切り刻んでいく。
「すごい」
セレスティアは息を呑んだ。
レオンの戦闘技術は、王都の騎士団でも見たことがないレベルの高さだった。まるで一人で軍隊と戦っているような、圧倒的な戦闘力。
しかし、魔物の数も多い。
リーダー格の大型個体が、レオンの隙を狙って背後から襲いかかる。
「レオン様、後ろから」
セレスティアの警告で、レオンが振り向いた。
間一髪で攻撃を避けるが、大型個体の爪が左肩をかすめ、鎧に深い傷をつける。
「この程度」
レオンは怯まず、逆に大型個体に向かって突進した。
正面から剣と爪がぶつかり合う。火花が散り、甲高い金属音が響く。
力と力の真っ向勝負。しかし、レオンの技術が勝った。
フェイントで大型個体の動きを惑わし、その隙に心臓を一突きする。
「ギャアアアア」
リーダーが倒れると、残りの魔物たちは戦意を喪失した。
しかし、レオンは容赦しない。逃げようとする魔物たちを、一匹ずつ確実に仕留めていく。
「村に被害を出すわけにはいかない」
その冷徹さは、まさに辺境を守る騎士そのものだった。
最後の一匹を倒すと、広場に静寂が戻った。
辺り一面に魔物の死骸が散らばり、レオンの剣には血が滴っている。
「終わったか」
レオンが剣を鞘に収めると、村人たちが恐る恐る姿を現した。
「レオン様、ありがとうございました」
「さすがはレオン様」
「あの数の魔物を一人で」
称賛の声が上がる中、レオンはセレスティアに歩み寄った。
「怪我は大丈夫か」
「はい、かすり傷程度です」
セレスティアが頬の傷を押さえながら答える。
「君が子どもたちを守ってくれたのか」
「当然のことをしただけです」
「当然、か」
レオンの表情に、微妙な変化があった。
自分の身を犠牲にしても子どもたちを守ろうとしたセレスティアの行動を、彼なりに評価しているようだった。
魔物襲撃の後、村人たちのセレスティアに対する見方は劇的に変わった。
「あの人、自分の命を危険に晒してまで子どもたちを守ってくれたのよ」
「武器も持たないで、魔物の前に立ちはだかるなんて」
「本当に勇敢な方だったのね」
村の主婦たちが口々に感嘆の声を上げる。
特に、子どもを持つ親たちの感謝は深かった。
「ルルを助けてくださって、ありがとうございました」
ルルの母親が、涙ながらにセレスティアに礼を述べる。
「いえ、当然のことです。ルルは大切な生徒ですから」
セレスティアの答えに、母親の涙が止まらなくなった。
「あなたのような方を、邪魔者扱いしていた自分が恥ずかしいです」
村長のゲルハルトも、セレスティアの前に深く頭を下げた。
「セレスティアさん、あなたは我々の村を守ってくれた恩人です。心からお詫びと感謝を申し上げます」
「村長さん、頭をお上げください」
「いや、これまでの無礼を許してほしい。あなたは真の意味で村の一員だ」
村人たちが一斉に拍手を始めた。
それは、セレスティアを完全に受け入れるという意思表示だった。
「セレス先生、ありがとう」
救われた子どもたちが、セレスティアに駆け寄ってくる。
「みんな、無事でよかった」
子どもたちを抱きしめながら、セレスティアの目にも涙が浮かんだ。
ついに、本当の意味で村人として認められた。
夕方になって、村が落ち着きを取り戻した頃、セレスティアはレオンを探した。
彼は村はずれで馬の手入れをしていた。
「レオン様」
「なんだ」
相変わらず素っ気ない返事だったが、以前ほどの冷たさはない。
「今日は本当にありがとうございました。あなたがいなければ、みんな」
「礼はいらない。村を守るのが俺の仕事だ」
「でも」
セレスティアが言いかけたとき、レオンが振り返った。
「お前も、よくやった」
「え?」
「武器も持たずに魔物の前に立ちはだかった。愚かとも言えるが、勇敢でもある」
レオンの表情が、僅かに和らいでいた。
「お前は本当に変わったな」
「変わった、ですか?」
「ああ。王都の悪徳令嬢だった頃とは、別人のようだ」
その言葉に、セレスティアの胸が温かくなった。
ついに、レオンに本当の自分を認めてもらえた。
「今日、お前が見せた光はなんだったんだ?」
レオンが鋭い質問を投げかける。
「光?」
「魔物がひるんだとき、お前の身体から光が出ていた」
セレスティアは戸惑った。自分でもよく分からない現象だった。
「私にも、よくわからないのです」
「そうか」
レオンがそれ以上追求しないことに、セレスティアは安堵した。
「では、これで」
「セレスティア」
立ち去ろうとした彼女を、レオンが名前で呼び止めた。
「はい」
「今日は、ありがとう」
初めて聞く、レオンからの感謝の言葉だった。
「こちらこそ、ありがとうございました」
二人は互いに微笑み合った。
それは、真の信頼関係の始まりを告げる瞬間だった。
夕日が二人を優しく照らし、長い影を地面に落としていた。
セレスティアの新しい人生に、また一つ大切なものが加わった。
命をかけて守ってくれる騎士との、確かな絆が。




