表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/32

第10話「小さな成果と変化の兆し」

 エルナ婆の指導を受けて一週間が経った。


 セレスティアのパン作りの腕前は、見違えるほど上達していた。最初はいびつな形だったパンも、今では村のベテラン主婦たちに負けない出来栄えになっている。


「今日もいい焼き上がりじゃないか」


 エルナ婆が満足そうに頷く。


「ありがとうございます。エルナさんのおかげです」


 セレスティアの表情には、以前のような絶望感はない。毎日少しずつでも上達している実感が、彼女に自信を与えていた。


「よし、今日は村の人たちにも分けてやろう」


「え、でも大丈夫でしょうか」


「遠慮することないよ。美味しく作れているんだから」


 エルナ婆に背中を押されて、セレスティアは焼きたてのパンを籠に入れた。


 まず最初に訪れたのは、隣家の主婦マリアの家だった。


「こんにちは、マリアさん」


「あら、セレスティアさん。珍しいわね」


 マリアの表情は相変わらず冷たかったが、セレスティアは勇気を出して籠を差し出した。


「パンを焼いたので、よろしければいかがでしょうか」


「パン? あなたが作ったの?」


 疑い深そうな声だったが、香ばしい匂いに誘われて一つ手に取った。


「エルナ婆さんに教わって作りました」


「へえ、意外とちゃんとした形になってるじゃない」


 マリアが小さく一口食べてみる。その表情が微妙に変わった。


「あら、美味しいじゃない。本当にあなたが作ったの?」


「はい、一人で焼きました」


「そう……まあ、ありがとう」


 素直に感謝の言葉を口にしたマリアに、セレスティアは嬉しくなった。


 次に訪れたのは、鍛冶屋のハンスの家だった。


「こんにちは、ハンスさん」


「おお、王都の……セレスティアさんか」


 ハンスは無骨な男だが、根は悪い人ではない。ただ、これまでセレスティアとは距離を置いていた。


「パンを作りましたので、よろしければ」


「パン? 俺はあまり甘いものは…」


「甘くありません。普通の食事用のパンです」


 ハンスが半信半疑で受け取って食べてみる。


「ほう、なかなかの出来じゃないか。しっかりした味だ」


「ありがとうございます」


「エルナ婆さんに習ったのか?」


「はい、毎日教えていただいています」


「そうか、頑張ってるんだな」


 ハンスの言葉には、以前のような敵意はなかった。むしろ、努力を認めてくれているような響きがある。


 村を回って歩くうち、セレスティアは村人たちの反応の変化を感じ取った。


 最初は疑り深そうだった人たちも、実際にパンを味わうと「意外と美味しい」「ちゃんと作れるじゃない」と評価してくれる。


 完全に受け入れられたわけではないが、明らかな敵意は薄らいできている。


「やればできるじゃないか」


 年配の農夫ゲルトが、思いがけない褒め言葉をくれた。


「王都の令嬢も、やる気になれば覚えられるんだな」


「ありがとうございます。まだまだですが、頑張ります」


「うん、その調子だ」


 一つずつ、小さな信頼を積み重ねていく。それは地道で時間のかかる作業だったが、確実に前進している実感があった。


 パンを配って回る途中、セレスティアは一人の少女と出会った。


 村の子どもの中でも特に人懐っこいルル、七歳の女の子だった。金色の髪を二つ結びにして、好奇心に満ちた大きな瞳でセレスティアを見上げている。


「お姉ちゃん、いい匂いがするね」


「パンを作ったの。よかったら食べてみる?」


 セレスティアが籠から小さめのパンを取り出すと、ルルの目が輝いた。


「本当? ありがとう」


 ルルが無邪気に微笑んでパンにかじりつく。その純粋な笑顔に、セレスティアの心は温かくなった。


「美味しい! お姉ちゃん、お料理上手なんだね」


「ありがとう、ルル」


「お姉ちゃんの名前はなんて言うの?」


「セレスティアよ」


「セレス……セレスティア……難しいな。セレスお姉ちゃんって呼んでもいい?」


「もちろんよ」


 ルルの無邪気さに触れていると、セレスティアは自分も子どもの頃のことを思い出した。


 王都の屋敷で、弟のアルバートと一緒に庭で遊んだ日々。あの頃はこんなにも純粋で、人を疑うことも知らなかった。


「セレスお姉ちゃん、今度一緒に遊ぼう」


「遊ぶって、なにをするの?」


「お花摘みとか、かくれんぼとか!」


 ルルの提案に、セレスティアは少し戸惑った。


 王都にいた頃は、令嬢らしい上品な遊びばかりで、庶民的な子どもの遊びには縁がなかった。


「でも、私はそういう遊び、あまり経験がないの」


「大丈夫! 教えてあげる。簡単だよ」


 ルルの屈託のない笑顔に、セレスティアも笑顔になった。


「それじゃあ、今度一緒に遊びましょうか」


「約束だよ!」


 ルルが小指を差し出す。指切りという庶民的な約束の仕方も、セレスティアには新鮮だった。


「約束」


 二人が指切りをしていると、他の子どもたちも興味深そうに寄ってきた。


「ルル、なにしてるの?」


「セレスお姉ちゃんと遊ぶ約束したの」


「セレスお姉ちゃん?」


 子どもたちがセレスティアを見る目には、大人たちのような警戒心はない。純粋な好奇心だけがあった。


「僕たちも一緒に遊んでもいい?」


 八歳くらいの男の子トムが恥ずかしそうに尋ねる。


「もちろんよ。みんなで遊びましょう」


「やった!」


 子どもたちが歓声を上げる。


 その様子を見ていた村の大人たちは、複雑な表情を浮かべていた。子どもたちが懐いているセレスティアを見て、彼女への評価を見直し始めているのかもしれない。


「お姉ちゃん、王都ってどんなところ?」


 ルルの質問に、セレスティアは少し考えた。


「とても大きくて、きれいな街よ。でも、ここの方が空気がきれいで、お星様がよく見えるの」


「本当?」


「本当よ。王都では、建物が高くて星が見えにくいの」


 子どもたちが目を輝かせて聞いている。彼らにとって王都は憧れの場所だったが、セレスティアの話を聞いて、自分たちの村にも良いところがあることを知った。


「じゃあ、お姉ちゃんはここが気に入った?」


「ええ、とても気に入ってるわ」


 セレスティアの答えに、子どもたちは嬉しそうに笑った。


 子どもたちとの交流が深まるにつれ、セレスティアはある問題に気づいた。


 村には学校がなく、読み書きができない子どもたちが多いのだ。


「ルル、この文字が読める?」


 セレスティアが地面に棒で簡単な文字を書いてみせると、ルルは首を振った。


「文字はわからないよ。お父さんもお母さんも読めないもん」


「そうなの」


 これは深刻な問題だった。読み書きができなければ、将来の選択肢が大きく限られてしまう。


「もしよかったら、私が教えてあげようか?」


「本当?」


 ルルの目が輝く。


「もちろんよ。他の子どもたちも一緒に」


 その日の夕方、セレスティアは村の中央の広場に子どもたちを集めた。


 最初は五人だったが、噂を聞きつけてどんどん増えて、最終的には十人ほどになった。


「今日は簡単な文字から始めましょう」


 セレスティアが地面に大きく文字を書く。


「これは『あ』という文字よ」


「あ」


 子どもたちが一斉に復唱する。


「次は『い』。この形を覚えてね」


 一文字ずつ、丁寧に教えていく。王立学院で受けた教育が、こんな形で役に立つとは思わなかった。


「先生、僕にも教えて」


「私も覚えたい」


 子どもたちの学習意欲は旺盛だった。


 遊びながら学べるよう、セレスティアは様々な工夫を凝らした。文字を使った歌を歌ったり、文字の形を体で表現したり。


「『り』は、こうやって線を引くのよ」


「『す』は、くるくるって回すの」


 子どもたちが楽しそうに文字を覚えていく様子を見て、セレスティアは深い喜びを感じた。


 これまで自分の存在意義を見失っていたが、ここにいる。人の役に立てることがある。


「セレス先生、数字も教えて」


「数字?」


「お買い物のときに困るんだ」


 トムの要望に、セレスティアは快く応じた。


「それじゃあ、数字も一緒に覚えましょう」


 一、二、三…基本的な数字と計算を教える。


 都市部では当たり前の知識も、辺境の村では貴重な教養だった。


 教室が終わる頃には、遠巻きに見ていた大人たちも増えていた。


「あの女、子どもたちに勉強を教えてるのか」


「意外と上手じゃないか」


「うちの子も覚えられるかしら」


 大人たちの反応も、以前とは明らかに違っていた。


 批判的な目ではなく、興味深そうに見守っている。


「お疲れ様でした」


 村長のゲルハルトが声をかけてきた。


「いえ、私の方こそ楽しませていただきました」


「子どもたちが喜んでいるようだね」


「はい、皆さんとても熱心で」


「実は、村に学校がないことを気にしていたんだ。でも、教師を雇う余裕がなくて」


 ゲルハルトの言葉に、セレスティアは胸を熱くした。


「もしよろしければ、続けさせていただきたいのですが」


「本当に?」


「はい。子どもたちの役に立てることが嬉しいです」


 村長の表情に、初めて温かいものが浮かんだ。


「ありがたい。村のためになることをしてくれるなら、大歓迎だ」


 その言葉に、セレスティアは涙ぐみそうになった。


 初めて、村人から感謝の言葉をもらえた。


 夕暮れ時、いつものように見回りをしていたレオンは、村の広場での光景を目にしていた。


 セレスティアが子どもたちに文字を教えている様子を、木陰から静かに見守っている。


「あの女、なにをしている」


 最初は訝しげに眺めていたが、やがてその内容を理解した。


 子どもたちが真剣に学んでいる。セレスティアも丁寧に教えている。これは確実に村のためになる活動だった。


「意外に根性があるな」


 レオンの評価が、僅かに上がった。


 王都から追放された悪役令嬢が、まさか村の子どもたちに勉強を教えるとは思わなかった。


 しかも、その姿は演技ではなく、心から楽しんでいるように見える。


「セレス先生、また明日も教えて」


「もちろんよ、ルル」


 セレスティアの笑顔は自然で、以前の高慢な表情とは全く違っていた。


「本当に変わったのか?」


 レオンは自問した。


 人間はそう簡単に変われるものではない。特に、根深い性格の問題は。


 しかし、目の前の光景は現実だった。


 セレスティアは確実に村人たちの役に立つことをしている。子どもたちも彼女を慕っている。


「まだ油断はできないが……」


 レオンは馬に跨がり、静かにその場を去った。


 しかし、その心の奥では、セレスティアへの見方が少しずつ変わり始めていた。


 完全な信頼はまだ置けないが、少なくとも「根っからの悪女」ではないかもしれない。


 時間をかけて見極めてみる価値はありそうだった。


 村の人々の評価も、確実に変わってきている。


「あの女、案外やるじゃないか」という声も聞こえ始めた。


 レオンは複雑な気持ちだった。


 セレスティアを信頼したい気持ちと、まだ警戒を解くべきではないという理性の間で揺れている。


「もう少し、様子を見るか」


 独り言をつぶやきながら、レオンは夜警の任務を続けた。


 しかし、その頭の中には、子どもたちに微笑みかけるセレスティアの顔が残っていた。


 あの笑顔は偽物ではない。


 そう感じ始めている自分に、レオンは戸惑いを覚えていた。


 セレスティアという女性は、思っていたよりも複雑で、興味深い存在なのかもしれない。


 明日もまた、彼女の様子を観察してみよう。


 そして、本当に信頼できる人物なのかを見極めよう。


 レオンの心に、小さな変化が生まれつつあった。


 完全な拒絶から、慎重な観察へ。


 それは、二人の関係にとって重要な進歩だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ