第10話「小さな成果と変化の兆し」
エルナ婆の指導を受けて一週間が経った。
セレスティアのパン作りの腕前は、見違えるほど上達していた。最初はいびつな形だったパンも、今では村のベテラン主婦たちに負けない出来栄えになっている。
「今日もいい焼き上がりじゃないか」
エルナ婆が満足そうに頷く。
「ありがとうございます。エルナさんのおかげです」
セレスティアの表情には、以前のような絶望感はない。毎日少しずつでも上達している実感が、彼女に自信を与えていた。
「よし、今日は村の人たちにも分けてやろう」
「え、でも大丈夫でしょうか」
「遠慮することないよ。美味しく作れているんだから」
エルナ婆に背中を押されて、セレスティアは焼きたてのパンを籠に入れた。
まず最初に訪れたのは、隣家の主婦マリアの家だった。
「こんにちは、マリアさん」
「あら、セレスティアさん。珍しいわね」
マリアの表情は相変わらず冷たかったが、セレスティアは勇気を出して籠を差し出した。
「パンを焼いたので、よろしければいかがでしょうか」
「パン? あなたが作ったの?」
疑い深そうな声だったが、香ばしい匂いに誘われて一つ手に取った。
「エルナ婆さんに教わって作りました」
「へえ、意外とちゃんとした形になってるじゃない」
マリアが小さく一口食べてみる。その表情が微妙に変わった。
「あら、美味しいじゃない。本当にあなたが作ったの?」
「はい、一人で焼きました」
「そう……まあ、ありがとう」
素直に感謝の言葉を口にしたマリアに、セレスティアは嬉しくなった。
次に訪れたのは、鍛冶屋のハンスの家だった。
「こんにちは、ハンスさん」
「おお、王都の……セレスティアさんか」
ハンスは無骨な男だが、根は悪い人ではない。ただ、これまでセレスティアとは距離を置いていた。
「パンを作りましたので、よろしければ」
「パン? 俺はあまり甘いものは…」
「甘くありません。普通の食事用のパンです」
ハンスが半信半疑で受け取って食べてみる。
「ほう、なかなかの出来じゃないか。しっかりした味だ」
「ありがとうございます」
「エルナ婆さんに習ったのか?」
「はい、毎日教えていただいています」
「そうか、頑張ってるんだな」
ハンスの言葉には、以前のような敵意はなかった。むしろ、努力を認めてくれているような響きがある。
村を回って歩くうち、セレスティアは村人たちの反応の変化を感じ取った。
最初は疑り深そうだった人たちも、実際にパンを味わうと「意外と美味しい」「ちゃんと作れるじゃない」と評価してくれる。
完全に受け入れられたわけではないが、明らかな敵意は薄らいできている。
「やればできるじゃないか」
年配の農夫ゲルトが、思いがけない褒め言葉をくれた。
「王都の令嬢も、やる気になれば覚えられるんだな」
「ありがとうございます。まだまだですが、頑張ります」
「うん、その調子だ」
一つずつ、小さな信頼を積み重ねていく。それは地道で時間のかかる作業だったが、確実に前進している実感があった。
パンを配って回る途中、セレスティアは一人の少女と出会った。
村の子どもの中でも特に人懐っこいルル、七歳の女の子だった。金色の髪を二つ結びにして、好奇心に満ちた大きな瞳でセレスティアを見上げている。
「お姉ちゃん、いい匂いがするね」
「パンを作ったの。よかったら食べてみる?」
セレスティアが籠から小さめのパンを取り出すと、ルルの目が輝いた。
「本当? ありがとう」
ルルが無邪気に微笑んでパンにかじりつく。その純粋な笑顔に、セレスティアの心は温かくなった。
「美味しい! お姉ちゃん、お料理上手なんだね」
「ありがとう、ルル」
「お姉ちゃんの名前はなんて言うの?」
「セレスティアよ」
「セレス……セレスティア……難しいな。セレスお姉ちゃんって呼んでもいい?」
「もちろんよ」
ルルの無邪気さに触れていると、セレスティアは自分も子どもの頃のことを思い出した。
王都の屋敷で、弟のアルバートと一緒に庭で遊んだ日々。あの頃はこんなにも純粋で、人を疑うことも知らなかった。
「セレスお姉ちゃん、今度一緒に遊ぼう」
「遊ぶって、なにをするの?」
「お花摘みとか、かくれんぼとか!」
ルルの提案に、セレスティアは少し戸惑った。
王都にいた頃は、令嬢らしい上品な遊びばかりで、庶民的な子どもの遊びには縁がなかった。
「でも、私はそういう遊び、あまり経験がないの」
「大丈夫! 教えてあげる。簡単だよ」
ルルの屈託のない笑顔に、セレスティアも笑顔になった。
「それじゃあ、今度一緒に遊びましょうか」
「約束だよ!」
ルルが小指を差し出す。指切りという庶民的な約束の仕方も、セレスティアには新鮮だった。
「約束」
二人が指切りをしていると、他の子どもたちも興味深そうに寄ってきた。
「ルル、なにしてるの?」
「セレスお姉ちゃんと遊ぶ約束したの」
「セレスお姉ちゃん?」
子どもたちがセレスティアを見る目には、大人たちのような警戒心はない。純粋な好奇心だけがあった。
「僕たちも一緒に遊んでもいい?」
八歳くらいの男の子トムが恥ずかしそうに尋ねる。
「もちろんよ。みんなで遊びましょう」
「やった!」
子どもたちが歓声を上げる。
その様子を見ていた村の大人たちは、複雑な表情を浮かべていた。子どもたちが懐いているセレスティアを見て、彼女への評価を見直し始めているのかもしれない。
「お姉ちゃん、王都ってどんなところ?」
ルルの質問に、セレスティアは少し考えた。
「とても大きくて、きれいな街よ。でも、ここの方が空気がきれいで、お星様がよく見えるの」
「本当?」
「本当よ。王都では、建物が高くて星が見えにくいの」
子どもたちが目を輝かせて聞いている。彼らにとって王都は憧れの場所だったが、セレスティアの話を聞いて、自分たちの村にも良いところがあることを知った。
「じゃあ、お姉ちゃんはここが気に入った?」
「ええ、とても気に入ってるわ」
セレスティアの答えに、子どもたちは嬉しそうに笑った。
子どもたちとの交流が深まるにつれ、セレスティアはある問題に気づいた。
村には学校がなく、読み書きができない子どもたちが多いのだ。
「ルル、この文字が読める?」
セレスティアが地面に棒で簡単な文字を書いてみせると、ルルは首を振った。
「文字はわからないよ。お父さんもお母さんも読めないもん」
「そうなの」
これは深刻な問題だった。読み書きができなければ、将来の選択肢が大きく限られてしまう。
「もしよかったら、私が教えてあげようか?」
「本当?」
ルルの目が輝く。
「もちろんよ。他の子どもたちも一緒に」
その日の夕方、セレスティアは村の中央の広場に子どもたちを集めた。
最初は五人だったが、噂を聞きつけてどんどん増えて、最終的には十人ほどになった。
「今日は簡単な文字から始めましょう」
セレスティアが地面に大きく文字を書く。
「これは『あ』という文字よ」
「あ」
子どもたちが一斉に復唱する。
「次は『い』。この形を覚えてね」
一文字ずつ、丁寧に教えていく。王立学院で受けた教育が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
「先生、僕にも教えて」
「私も覚えたい」
子どもたちの学習意欲は旺盛だった。
遊びながら学べるよう、セレスティアは様々な工夫を凝らした。文字を使った歌を歌ったり、文字の形を体で表現したり。
「『り』は、こうやって線を引くのよ」
「『す』は、くるくるって回すの」
子どもたちが楽しそうに文字を覚えていく様子を見て、セレスティアは深い喜びを感じた。
これまで自分の存在意義を見失っていたが、ここにいる。人の役に立てることがある。
「セレス先生、数字も教えて」
「数字?」
「お買い物のときに困るんだ」
トムの要望に、セレスティアは快く応じた。
「それじゃあ、数字も一緒に覚えましょう」
一、二、三…基本的な数字と計算を教える。
都市部では当たり前の知識も、辺境の村では貴重な教養だった。
教室が終わる頃には、遠巻きに見ていた大人たちも増えていた。
「あの女、子どもたちに勉強を教えてるのか」
「意外と上手じゃないか」
「うちの子も覚えられるかしら」
大人たちの反応も、以前とは明らかに違っていた。
批判的な目ではなく、興味深そうに見守っている。
「お疲れ様でした」
村長のゲルハルトが声をかけてきた。
「いえ、私の方こそ楽しませていただきました」
「子どもたちが喜んでいるようだね」
「はい、皆さんとても熱心で」
「実は、村に学校がないことを気にしていたんだ。でも、教師を雇う余裕がなくて」
ゲルハルトの言葉に、セレスティアは胸を熱くした。
「もしよろしければ、続けさせていただきたいのですが」
「本当に?」
「はい。子どもたちの役に立てることが嬉しいです」
村長の表情に、初めて温かいものが浮かんだ。
「ありがたい。村のためになることをしてくれるなら、大歓迎だ」
その言葉に、セレスティアは涙ぐみそうになった。
初めて、村人から感謝の言葉をもらえた。
夕暮れ時、いつものように見回りをしていたレオンは、村の広場での光景を目にしていた。
セレスティアが子どもたちに文字を教えている様子を、木陰から静かに見守っている。
「あの女、なにをしている」
最初は訝しげに眺めていたが、やがてその内容を理解した。
子どもたちが真剣に学んでいる。セレスティアも丁寧に教えている。これは確実に村のためになる活動だった。
「意外に根性があるな」
レオンの評価が、僅かに上がった。
王都から追放された悪役令嬢が、まさか村の子どもたちに勉強を教えるとは思わなかった。
しかも、その姿は演技ではなく、心から楽しんでいるように見える。
「セレス先生、また明日も教えて」
「もちろんよ、ルル」
セレスティアの笑顔は自然で、以前の高慢な表情とは全く違っていた。
「本当に変わったのか?」
レオンは自問した。
人間はそう簡単に変われるものではない。特に、根深い性格の問題は。
しかし、目の前の光景は現実だった。
セレスティアは確実に村人たちの役に立つことをしている。子どもたちも彼女を慕っている。
「まだ油断はできないが……」
レオンは馬に跨がり、静かにその場を去った。
しかし、その心の奥では、セレスティアへの見方が少しずつ変わり始めていた。
完全な信頼はまだ置けないが、少なくとも「根っからの悪女」ではないかもしれない。
時間をかけて見極めてみる価値はありそうだった。
村の人々の評価も、確実に変わってきている。
「あの女、案外やるじゃないか」という声も聞こえ始めた。
レオンは複雑な気持ちだった。
セレスティアを信頼したい気持ちと、まだ警戒を解くべきではないという理性の間で揺れている。
「もう少し、様子を見るか」
独り言をつぶやきながら、レオンは夜警の任務を続けた。
しかし、その頭の中には、子どもたちに微笑みかけるセレスティアの顔が残っていた。
あの笑顔は偽物ではない。
そう感じ始めている自分に、レオンは戸惑いを覚えていた。
セレスティアという女性は、思っていたよりも複雑で、興味深い存在なのかもしれない。
明日もまた、彼女の様子を観察してみよう。
そして、本当に信頼できる人物なのかを見極めよう。
レオンの心に、小さな変化が生まれつつあった。
完全な拒絶から、慎重な観察へ。
それは、二人の関係にとって重要な進歩だった。




