第1話「舞踏会の悪夢」
ゴールデンローズ宮殿の大舞踏会場は、今宵も煌びやかな光に包まれていた。
数百本の蝋燭が天井に吊るされたシャンデリアを照らし、その光が磨き上げられた大理石の床に踊る。
絹とサテンに身を包んだ貴族たちが、羽根飾りを揺らしながらワルツのステップを踏んでいる。
金糸で刺繍された壁掛けタペストリーには王家の紋章が誇らしげに描かれ、部屋の隅々まで薔薇の香水が漂っていた。
楽団の奏でる優雅なメロディーが、まるで天上の音楽のように会場を満たしている。
会場の片隅では侯爵夫人たちが絹の扇子を翻しながら最新の噂話に花を咲かせ、若い騎士たちは燕尾服に身を包んで令嬢たちをエスコートしている。
テーブルには王宮料理長自慢の料理が並び、クリスタルグラスには上質なワインが注がれていた。
宮廷画家が描いた肖像画が壁を飾り、金細工の燭台が幻想的な陰影を作り出している。
この華やかな舞台の中央に、ひときわ目を引く女性が立っていた。
セレスティア・ルクレール。
ルクレール伯爵家の嫡子で、王太子リシャール殿下の婚約者。
深いサファイアブルーのドレスは彼女の白磁のような肌を際立たせ、金髪は宮廷専属の美容師によって複雑なアップスタイルに結い上げられている。
手には純白の絹の手袋、首元には三代前から伝わるダイヤモンドのネックレスが上品に輝いていた。
ドレスの裾には細かな真珠の刺繍が施され、歩く度にそれらが月光のようにきらめく。
彼女の周りには常に人が集まっていた。
地位の高い伯爵令嬢として、そして将来の王妃として、誰もが彼女に近づきたがる。
しかし、セレスティアは内心で深いため息をついていた。
「今夜もまた、完璧な悪役令嬢を演じなければならない」
表面上は優雅な微笑みを浮かべているが、その瞳の奥には誰にも見せられない疲労の色が宿っている。
十八歳の誕生日から既に半年。毎日毎日、高慢で冷酷な悪役を演じ続けることに、彼女の心は悲鳴を上げていた。
本当の彼女は、心優しく思いやりのある女性だった。
王立学院では常に成績優秀で、困っている下級生を密かに助けることも多かった。
孤児院への寄付も、父には内緒で自分の小遣いから捻出していた。
雨に濡れた小鳥を見つければ看病し、道端で転んだ子供がいれば膝の傷を手当してやる。そんな女性だった。
しかし、一年前からその本性を封印し、リシャールの要求通りに「高慢で冷酷なセレスティア」を演じ続けている。
理由は……家族を守るためだった。
「セレスティア様、今夜もお美しいですわ」
「そのネックレス、素敵ですこと。やはり名門の令嬢は違いますのね」
取り巻きの令嬢たちが甘い声で話しかけてくるが、セレスティアは彼女たちの心の底にある計算を見抜いていた。
地位の高い伯爵令嬢、そして王太子の婚約者に取り入ろうとする下心。
本当の友情などではない。それでも、彼女は役割を演じなければならなかった。
「ありがとう、リアナ。でも、あなたのドレスの色合いは少し派手すぎるのではなくて? もう少し上品な色を選ばれた方が、年齢に相応しいと思いますわ」
皮肉を込めた返答に、リアナの顔が一瞬引きつる。
周囲の令嬢たちも微妙な表情を見せた。しかし、これもまた彼女に課せられた「悪役令嬢」の役割の一部だった。
実際には相手を傷つけたくないのに、毒舌を吐かねばならない。
その度に自分の心も一緒に傷ついていく。リアナの悲しそうな表情を見るのが辛くて、セレスティアは視線を逸らした。
「さすがはセレスティア様。的確なご指摘ですわ」
別の令嬢が媚びるような声で言う。しかし、その瞳には明らかな恐怖と嫌悪が宿っていた。
誰も彼女を本当に慕っているわけではない。
地位への恐れと利用価値があるからこそ、表面的に従っているだけだった。
舞踏会場の一角で、金髪の青年が立ち上がった。
王太子リシャール殿下。
端正な顔立ちに気品溢れる佇まい、多くの女性が憧れを抱く理想的な王族だった。
しかし、セレスティアは彼の瞳に宿る冷酷さを知っている。
一年前の密談以来、彼女は王太子の真の性格を理解していた。
「あら、リシャール殿下がお立ちになりましたわ」
「なにかご挨拶でもあるのでしょうか」
取り巻きたちがひそひそと囁き合う。セレスティアの胸に、理由の分からない不安が広がった。
リシャールがゆっくりと舞踏会場の中央へ歩き出す。
楽団の演奏が止み、会場全体に静寂が訪れた。五百人を超える貴族たちの視線が一斉に彼に注がれる。
水晶のシャンデリアの光が彼の金髪を照らし、まるで神々しい光輪のように見えた。
「皆様、本日はお忙しい中、この舞踏会にご参加いただき誠にありがとうございます」
朗々とした声が、高い天井に反響して会場の隅々まで響いた。
セレスティアは嫌な予感がして身体が強張る。
リシャールの視線が自分に向けられているのを感じる。その瞳には、今まで見たことがないような冷たい光が宿っていた。
「実は皆様にお伝えしたいことがございます。王国の未来に関わる、重要なお話です」
ざわめきが会場を包んだ。貴族たちが身を乗り出し、期待と好奇心に満ちた表情でリシャールを見つめている。
セレスティアの心臓が激しく鼓動を始めた。手のひらに汗が滲む。この展開は予定にない。一体何が起ころうとしているのだろうか。
「セレスティア・ルクレール嬢」
名前を呼ばれた瞬間、会場のざわめきが嘘のように止んだ。針の落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂。
数百人の視線がセレスティアに集中する。まるで舞台の上で晒し者になったような気分だった。
スポットライトを浴びた舞台女優のように、彼女は孤独だった。
「はい、リシャール殿下」
震え声にならないよう気をつけながら返事をする。しかし、声は思ったより小さく、会場の後ろまでは届かなかっただろう。
悪い予感は確信に変わりつつあった。
「君との婚約を、ここに解消いたします」
その言葉が会場に響いた瞬間、時が止まったような感覚に陥った。




