8話 旅のはじまり②
緑あふれる庭園で、ルナリスはゆっくりと振り返った。
花びらを濡らす朝露が、陽の光を受けてきらきらと輝いている。小鳥のさえずりが新たな一日を告げる中、ルナリスはどこか落ち着かない様子で胸元に手を添えた。
その日、彼女が身に纏っていたのは、これまでとはまるで趣の異なる衣装だった。
ノクティリカ式の絢爛なドレスの代わりに彼女が選んだのは、旅装にふさわしい実用性と品位を兼ね備えたウォルフワーズの衣装。
深い緑を基調としたワンピースは、裾が膝下より少し長めで、ふくらみが抑えられている。所々に植物を思わせる意匠の刺繍が施されており、華美ではないが、細部にまでこだわりが感じられた。
長めの袖は風をはらむ程度のゆとりをもちながら、手首できゅっと留められていて、動作の邪魔にならない。
腰には細い革帯が巻かれ、小さなポーチや短剣を下げるための留め具がついている。黒の編み上げブーツは旅の道を歩くにふさわしい、しっかりとした造りだった。
「……どう?」
ルナリスはくるりと身体を一回転させ、スカートの裾を軽く持ち上げてみせた。
披露する相手は、彼女の婚約者であるウォルフワーズ国の第三王子――リヒトである。
彼はすでにルナリスを見つめていた。日差しを受けたその瞳が、どこか眩しそうに細められている。
「似合ってるよ、すごく」
その言葉に、ルナリスはかすかに頬を染めた。
ノクティリカでもこの国でも、「月の宝玉」を讃える言葉は飽きるほど聞いてきた。ルナリスにとって、容姿を褒められることは最早日常であり、心を動かされるようなことではない。
そのはずなのに、リヒトに言われると、どうしてこんなにも胸がくすぐったくなるのだろう。
「そ、そう? あなたが選んだんだから、似合わなかったら怒るわ」
頬に残る紅を隠すように、彼女はくるりと背を向けた。
柄にもなく照れている自分を振り払うかのように、髪をかきあげようとする。だが、指先は空を切った。
――そうだった。今日は旅装のため、長い髪はひとつに結い上げている。波打つ金の髪は揺れることなく、手をやる場所はどこにもなかった。
所在なく宙をさまようその手を、リヒトがそっと包み取る。
驚いて振り返ったルナリスに、彼は穏やかな笑みを向けると、
「そろそろ時間だ。行こう」
そう言って、握った手を引きながら歩き出した。
城門前の広場には、すでに見送りの人々が集まっていた。
石畳を埋め尽くすように、老若男女の姿がある。色とりどりの衣をまとった人々が道の両脇に並び、にこやかな笑顔と共に、小さな花束や干し果実、護符としての石などを差し出していた。旅立つ者の無事を祈る、古くからの風習だという。
その向こうには、整然と並ぶ騎士たちの姿。近衛騎士団の一隊に護られながら、王家の面々も姿を見せていた。
王のローブは過剰な装飾もなく、王妃は花の刺繍を施した羽織を軽やかにまとっている。王太子をはじめとする王の子らは、家族を見送るようなまなざしをルナリスに向けていた。
格式に縛られない、自然体な姿。それは、ウォルフワーズという国の在り方そのものを映し出しているように思えた。
自然を愛し、実りを尊ぶこの地では、権威とは民と共にあるべきものだと、誰もが当たり前のように受け止めているのだろう。
厳しさの中に宿る柔らかさ。誇りを抱きながらも、他を包みこむような大らかさ。
束の間の滞在だったが、この国を支えているものの一端を、確かに感じ取った気がした。
合図と共に、ゆるやかに馬車が動き出す。
見送りの声は城壁の外にまで響いていたが、やがて軋む車輪の音にかき消されていく。揺れる馬車の窓から身を乗り出すようにして、ルナリスは王都の街並みを眺めた。
「名残惜しい?」
ふいに、声がすぐ近くから聞こえて、ルナリスは振り向く。
リヒトが馬を横づけにしていた。赤茶色の髪を風に揺らしながら、手綱を軽やかに操って馬車と並走している。
旅支度の彼も、この使節団に同行するひとりだ。
「まさか王家の代表があなただなんてね、リヒト殿下」
冗談めかして告げると、リヒトは肩をすくめた。
「一番ヒマなやつが俺だった、ってだけだよ。みんな忙しそうだし」
そう言って笑うリヒトの顔を見ているうちに、ルナリスの脳裏に、出発前の情景がよみがえった。
年老いた侍従が、彼の袖にすがりつきながら、「どうか、くれぐれも……くれぐれも! 粗相のないように!」と涙ながらに懇願していた姿。
そのすぐ後には、王太子でもあるリヒトの兄が、凛とした声で言葉を送っていた。
「お前はウォルフワーズの一員だ。誇りを忘れず行動するんだよ」
きちんとした訓戒だったが、その言い方がまるで幼子に言い聞かせているようで、ルナリスはつい可笑しくなってしまった。当のリヒトは、むっとした顔で小さく、
「もう、子ども扱いするなってのに……」
と漏らしていたけれど。
そんな場面を思い出していると、ルナリスの頬が自然とゆるむ。
(あの方たちが、今のリヒトを支えてくれているのね)
たとえ世界の理とやらに記憶を書き換えられようとも、リヒトにとって彼らの存在は、どんなに心強いものだろう。
彼が今ここにあるのは、確かにこの世界の家族のおかげなのだ。
「姉」であった自分に、その役割が果たせないことが少しばかり寂しいけれど。それでも、彼自身が紡いできた絆を、大切にしたいと思った。
「どうしたの?」
遠くを見つめていると、リヒトが首を傾げながら尋ねてきた。
「ううん、なんでもないの。ただ――今日も、いい天気だなって」
澄みわたる青空の下、白い雲がゆっくりと流れていく。
馬車を引く馬の蹄が、乾いた土を心地良く踏みしめる。
優しい風が、ふたりの衣を揺らして、静かに通り過ぎていった。




