7話 旅のはじまり①
ノクティリカ使節団の来訪を祝して開かれた迎賓市は、七日七晩にわたり賑わいを見せた。
陽が昇るたびに市は膨らみ、沈むごとに光と音が街を包んだ。
ウォルフワーズの人々にとってそれは、ただの祭りではない。
諸侯や部族の誇りを掲げた特産品が軒を連ね、商人たちは手を変え品を変え、領地の豊かさや魅力を説く。
北の織物、東の香油、南の編細工、そして西の戦飾り。様々な文化が入り混じり、争いよりも交易が重んじられるこの国では、市そのものが和平の象徴なのだ。
尽きぬ水に食物は、民の生活を豊かにし、それがやがて国の力ともなる。
宴の幕が下りた明朝、ルナリスは宮殿の客室で目を覚ました。
木製の大きなベッドから抜け出しバルコニーに出ると、すでに空はうっすらと青みを帯びていた。
かすかに冷たい風が肌をなでる。祖国に比べれば温暖なウォルフワーズといえども、朝晩は流石に冷えるようだ。
バルコニーから見渡せる城下町は、昨日までの喧騒がまるで幻だったかのように静まり返っていた。
それでも視線の先には、まだ動きがある。
幌をかぶせた荷馬車が列をなして広場を出ていき、遠くへ続く街道を目指していた。
市を終えた商人たちが、故郷や次なる交易地を目指して出立していくのだ。
立ち上る朝靄に溶けていく彼らの背は、逞しく希望に満ちて見えた。
「……今日から、私も旅に出るのね」
ぽつりと呟く声が、風に乗って消えていく。
今回彼女がこの国へやって来たのは、第三王子との将来的な関係を深めるためばかりではない。
ルナリスの故郷であるノクティリカは、輝晶の国と称される、宝石の一大産出国だ。山岳地帯が国土の大半を占め、山ほどの宝石が取れるかわりに慢性的な食糧不足に陥っている。
日照は限られ、耕作に向かぬ傾斜地が多く、飲み水として適する水源は固い地盤の遥か地下。
ノクティリカを支えるのは、宝石を主とした貿易で得た莫大な富。
そして、「魔力」と呼ばれる不可思議な力だった。
だが、宝石だけで人は生きていけない。
喉を潤し、食を得て、命を育むには――沃野が、穏やかな陽が、そして清らかな水が必要だ。
そうしたものをノクティリカにもたらしているのが、まさにこの国、ウォルフワーズだった。
広大な草原、澄んだ水脈、穏やかな気候、そして安定した収穫。
ウォルフワーズはノクティリカにとって、生命線そのものといえる存在である。
事実、両国は過去数十年にわたり、互いの資源と文化を補い合い、戦ではなく交易によって強い結びつきを築いてきた。
ウォルフワーズはノクティリカの魔術を用いた加工技術を重んじ、ノクティリカはウォルフワーズの豊穣を尊んだ。
争うのではなく、補い合う関係。それはある意味で、稀有な友好関係といえる。
けれどそれは、絶えず努力の上に成り立つ均衡だ。一度でも信頼を損ねれば、脆く崩れるものでもある。
ルナリスには、豊穣をもたらす大地を巡り、食糧問題に関する知見を深めるという目的がある。そしてもうひとつ――水源の確保、という使命があった。
ノクティリカの暮らしを支える水は、決して国内で賄えるものではない。
限られた水脈はすでに幾重にも掘り尽くされ、地下からくみ上げられる水は、僅かな農地でさえ十分に潤すことはできない。
それでも、これまで水を得られたのは、「魔道上水路」と呼ばれる魔力駆動の巨大な送水機構があったからだ。かつて王都の研究所によって開発されたこの装置は、国境を越えて水を運び、乾いた高地の都市や鉱山にまで命の水を届けてきた。
それは一種の希望だった。魔力を持つ者が担うべき、国の未来を支える誇りある技術。
だが、最近になって、その魔道上水路に深刻な水質汚染が見つかったのだ。
今、ノクティリカにとって最も現実的な解決策は、国外からの新たな水資源の導入――すなわち、隣国ウォルフワーズの協力を得ることに他ならない。それも、一箇所では不十分だ。万が一、再び汚染が広がった時の備えとして、別地域からも水源の道を確保する必要があった。
とりわけ、西部のグランメル領や、北西のベルク族が持つ山麓の湧水地は、ノクティリカから比較的近く、豊かで清らかな流れを絶やさぬ貴重な水源とされていた。
本来であれば、グランメル家に頼るのが最も確実なのだろう。
ノクティリカは長年、彼らの水源に支えられてきたし、リヒトにも浅からぬゆかりがあるという。王族の名は、交渉の足がかりとして十分な効力を持つ。
しかしルナリスは、あえて別の道を選んだ。
王家に懐疑的で、外部からの干渉を嫌う北西の部族ベルク族に、まず足を運ぶことを決めたのだ。
ベルク族との対話は、決して容易ではないだろう。それでも彼らと正面から向き合い、誠意を尽くした上で、必要とあらば頭を垂れる覚悟で臨もうと心に決めていた。何よりも先に、彼らの大地へ赴くことが誠意の第一歩となるなら、どんな険しい旅路でも進んで行こう――と。
「私に出来ることをやろう」
欄干を握る手に力が籠る。
これからはじまる旅は、彼女にとってもうひとつの意味を持っていた。
ルナリスには、魔力がない。
周囲の子どもたちが次々に眩い魔力を発現させていく中、ただ一人その煌めきを得られなかった自分は、鉱石と魔力が支配するこの国にとってあまりに頼りない存在に思えた。
それでも家族は、魔力を持たぬ娘を深く愛し、慈しみ、惜しみなく支えてくれた。
アイオライト家に生まれながら、力を継げなかった自分に、決して失望を向けなかった人々へ。
ウォルフワーズに嫁ぐという道を選んだ自分が、最後にできる恩返し。
それが、命の水をこの手で運ぶことなら――。
ルナリスは、静かに目を伏せる。
指先に触れた朝の冷気は、まるで決意を後押しするかのように凛としていた。
胸の奥に浮かぶのは、魔力という輝きではない。けれどそれに劣らぬ、確かな意志の光だった。




