6話 常緑の国にて⑥
彼にとって、姉という存在は、まさに「絶対王政」だった。
命令は絶対、口ごたえは何倍にもなって返される。それなのに、彼女の瞳にはいつも深い親愛の情が宿っていた。
口うるさくて、ちょっと偉そうで、でも誰よりも自分を気にかけてくれた女性。
ひとつの傘の下で肩を寄せ合ったこともあれば、喧嘩をしておやつを隠されたこともある。
大人ぶった態度で子ども扱いをするくせに、平気で涙をこぼすこともあった。
他人には決して見せない弱さを、弟である自分にだけは見せてくれた。
理不尽さと優しさが同居する、最強にして最愛の支配者――。
その存在が、満面の笑みで圧をかけてくる。
「なにか隠していることがあるわね?」
目の前の彼女は、記憶の中の姉とはまったく違う姿をしている。
それでも、逃さぬよう見据えるその瞳には、あの頃と変わらぬ芯の強さが見て取れた。
「う……」
リヒトは言葉に詰まり、視線を泳がせる。
「月の宝玉」と称される美貌は今や凄みすら感じさせ、思わず身体を引いてしまう。
「ず、ずるいぞ。俺が姉さんの圧に勝てないのを知ってて……!」
「じゃあ、早く言いなさい」
「も~! その顔で凄むなよ……」
彼は思わず頭を抱えてうつむく。
前世で築かれた姉弟の上下関係は、生まれ変わった今でも健在だった。
「俺だって、全部を知ってるわけじゃない。でも――」
彼は短く息を吐き、観念したように顔を上げる。
目には真剣な光が宿っていた。
「俺は、生まれ変わったわけじゃない。……“転移”なんだ」
「転移……?」
言葉をなぞるように、ルナリスが呟く。
「うん。ある日突然、違う世界に飛ばされた。……姿も、記憶も、そのまま」
ルナリスは息を飲んだ。
彼女がこの世界に“生まれ変わった”のとは、まるで性質が違う。
つまり、彼は魂だけではなく、理人という存在そのものとして、この世界へやって来たのだ。
俄かには信じがたい話――少なくとも、自分以外の人間にとってはそうだろう。
だがルナリスもまた、前世を持つという信じがたい人生を歩んできた身だ。それに前世では、「転移」や「転生」を題材にした物語が数多く存在していた。
まさか自分の身にそれが起こるとは思いもしなかったが、不思議と腑に落ちる感覚もあった。
「それじゃあ、今のあなたの家族は……」
首をかしげるルナリスに、彼は気まずそうに視線を逸らした。
「“運命調律”っていうらしい」
「運命調律……?」
「うん。世界の理、って言えばいいのかな……とにかく、そういう力が働くみたいなんだ」
初めて聞く言葉だった。リヒトは、言葉を手探りするように続けた。
「異世界に転移すると、自分に関わる記録や、周囲の記憶が書き換えられる。矛盾や違和感をなくすように……」
「そんなことが可能なの?」
「分からない。俺の意思でできることじゃないし……でも、実際にそれが起きた」
「……まるで物語の世界ね」
話を聞けば聞くほど、ルナリスは自分とリヒトの状況がいかに異質かを思い知らされる。
ただひとつ確かなのは、転生には転生の、転移には転移の、それぞれに固有の理があるということだ。
「それって――」
ルナリスがさらなる問いを口にしかけたその時、ふいに意識を引き戻すような音が鳴り響いた。
二人は揃って天を仰ぐ。
高い塔から響く鐘の音が、夕暮れの空に幾重にも重なり、やがて溶けていく。
どれほど長く話し込んでいたのだろう。
空はすっかり茜色に染まり、風も冷たさを帯び始めていた。
リヒトの横顔は、どこかほっとして見える。
それが何かをはぐらかしているように感じて、ルナリスの胸には僅かな違和感が残った。
「時間だ。今夜は晩餐会があるだろ」
「もう! 聞きたいことが山ほどあるのに……!」
今夜は、貴族たちを迎えての晩餐会が予定されている。
名目は、国交復活八十年の記念式典と、隣国ノクティリカからやって来た使節団の歓迎。
ルナリスはその使節団の一員として、そして主賓国王子の婚約者として出席することになっている。
ウォルフワーズ王家の王子と、ノクティリカの令嬢。
どちらも、遅刻など許されない立場だ。
差し出された手を取り、ルナリスは渋々席を立つ。
優雅なエスコート。傍から見れば、申し分のない婚約者同士の姿だろう。
よくよく考えてみれば、この後の晩餐会でも、彼に伴われての入場となる。
婚約者として、その腕に寄り添い――。
(ちょ……っと待って。それっていいの? だって、リトは弟で……今はもう違うけれど、私は姉で――。ああ、ダメ。考えることがありすぎて、頭が回らない!)
淑女のすました顔の裏で、ルナリスは思考をぐるぐると巡らせる。
そんな心を知ってか知らずか、彼は暢気に笑った。
「あっちの世界を知っていると、立場って面倒だなって思うよ」
「……それには同意するわ」
二人は庭園を引き返し、王宮へと歩き出す。
草原の地平に沈みかけた太陽が、長く伸びたふたつの影を淡く揺らしていた。
「それじゃあ、私は準備があるからここで」
別れ際、ルナリスがそう声をかけると、
「姉さ――いや、ルナリス、嬢……!」
彼は意を決したように口を開き、たどたどしくそう言った。
「な、なによ急に改まって。しかもカタコトだし……」
名を呼ばれた瞬間、ルナリスはぴたりと動きを止める。同時に、彼の緊張が伝わって、こちらまで落ち着かない気分になってしまう。
「いや、その……立場的にも関係的にも、“姉さん”呼びはまずいよなって」
言われて、ルナリスも思い当った。
たしかに、今の自分たちの関係を考えれば、呼び方を改める必要がある。
「では、私のことは“ルナリス”と」
「よ、呼び捨て!?」
「当たり前でしょう。あなたは今や、一国の王子なのだから」
家臣たちの目に入らぬよう、胸元に指を突きつけると、彼は蚊の鳴くような声で「わかった」と答えた。
「じゃあ、俺のことは“リヒト”で。愛称なんだ」
「……前と変わらないじゃない」
「……呼びやすくていいだろ」
愛称とはいえ、名前までもが前世と同じとは。
ルナリスはふと思ったが、転移とはそういうものなのだろう、と自分を納得させた。
「では、リヒト殿下」
「や、殿下はいらな――」
「晩餐会でお会いできること、楽しみにしておりますわ」
ルナリスは花が開くような所作で一礼すると、いたずらっぽい視線を送りつつ振り返る。
口に出してみた馴染みのある名前は、しかしどこか以前より遠く感じられた。
今世での名を呼び合う。それだけで、ふたりの距離が少しだけ変わったような気がする。
弟ではなく、この国の王子として。
そして――婚約者として。
心が追いつかないまま変わっていく現実が、ルナリスの胸を静かに波立たせた。




