57話 想いの在処、絆の形①
領主邸は朝から騒がしかった。
夜に控えた宴の準備で、大広間はもちろん、裏庭までもが開放されていた。使節団付きの騎士たちも、手の空いた者は荷運びを手伝わされており、普段は剣を握る手で酒樽や食材を抱えて行ったり来たりを繰り返す。
その喧噪を少し離れた場所から眺めつつ、リヒトは庭の隅へと足を運んだ。
足首の痛みはまだ残っていたが、じっとしていることは性に合わない。
昨夜、久しぶりに異世界の夢を見た。いまだに胸を締め付ける記憶を。
そこには、彼女がいた。
理沙――自分にとって姉であり、守りたかった人。
この世界に帰還した当初、リヒトは抜け殻のようだった。誰にも会わず、部屋に閉じこもり、ただ夜毎に空を仰いだ。星が流れるのを待ち続けた。
もう、理沙はどこにもいない。
ならばせめて、彼女の亡骸とともにどこかへ消え去ってしまいたかった。
叶わぬ願いを抱きながら、彼女のいない世界を拒み続ける日々。
けれど、どれほど嘆こうとも時は流れる。
喪失を抱えたまま、日常は少しずつ形を取り戻していった。
まるで、異世界での時間が最初から存在しなかったかのように。
移転したときのままの姿で、リヒトはこの世界へ帰還していた。彼自身にとっては確かに四年の記憶があるのに、この世界では一瞬の出来事でしかなかった。
帰還を果たした後、気付けば背が僅かに伸びはじめていた。鏡に映る自分を見るたびに、リヒトはふと思う。
もし今、彼女の隣に立てたなら。
あの頃より、もっと近い目線で笑い合えただろうか、と。
やがて季節が一巡したころ、婚約話が持ちあがった。
相手は隣国の令嬢。提示された家名に、リヒトの心が一瞬だけ波立った。
アイオライト――忘れるはずもない名が、燻りつづける記憶を呼び覚ます。
だが、令嬢本人に思いを馳せることもなければ、未来に期待を抱くこともない。リヒトにとって重要なのは、その名が偶然にも理沙を思い出させただけのこと。
どうでもよかった。
理沙以上に大切な人などいない。それなら、誰でも構わない。
なかば自暴自棄になっていたリヒトは、婚約を淡々と受け入れた。
まさかその先に、すべてを揺るがす出会いがあるとは、夢にも思わずに。
(これからも、理沙を忘れることはない)
彼女の面影はずっと、胸の奥で息づいている。
でも今、目の前にいて、自分の隣を歩き、同じ未来を見ようとしているのはルナリスだ。
彼女を愛している。その答えに、すでに迷いはない。
同じであって、違う存在。
狭間で揺れ動く心を振り払うために、リヒトは剣を振るった。空を裂く鋼の音に思考を溶かし、ただ無心に刃を振り下ろす。
「……まだ治りきっておらん足で、何をしておる」
ふいに、低い声が聞こえた。振り返るまでもなく、それが誰のものかは分かっていた。
衰えを感じさせない祖父の視線が、背後から射抜いてくる。
「体を動かしておかないと、落ち着かなくて」
「落ち着かぬなら、本でも読んでおれ」
「……そういう気分じゃないんだ」
言葉を濁すと、カイルはじっと目を細めた。咎め立てはしないが、迷いを見抜いているかのような沈黙に、リヒトは視線を泳がせる。
しばしの沈黙ののち、カイルは短く息を吐くと、
「……来い。たまには、年寄りの話に付き合え」
そう言って背を向ける。
リヒトは剣を置き、祖父の後を追った。
向かったのは、領主邸の一角にある書斎だった。
壁一面を埋め尽くす本棚と、窓辺の机。向かいの壁に飾られた一枚の絵画に、リヒトは思わず目を奪われた。
「……祖父ちゃん?」
そこに飾られていたのは、祖父を描いた姿絵だった。年輪を刻んだ顔、少し丸みを帯びた肩の線、落ち着きを感じさせる立ち姿。
しかし、どこか違和感を覚え、リヒトは首を傾げる。
「この絵……もっと若い頃のものだったよな。今の祖父ちゃんより」
記憶の中にある姿絵は、若き日のカイルを描いたものだったはず。
問いかけると、カイルは口の端をわずかに吊り上げた。
「よく気づいたな。若かりし日の姿を描いた上から、今の姿を重ねてもらったのだ」
「わざわざ……どうして?」
不思議そうに尋ねると、カイルはしばし絵を眺め、それからゆっくり答えた。
「今、目の前にあるものを大切にしたいからだ」
言葉の真意を測りかねて瞬きをするリヒトを横目に、カイルは続ける。
「過去を否定するつもりではない。それを受け入れてこそ、正しく今が見えてくる。この下にある輪郭が消えぬのと同じで、若き日のわしがいたから、今のわしがある。それを、いつまでも忘れないためにな」
リヒトは息を呑んだ。
――過去は、消えない。
理沙もまた、決していなくなったわけではない。彼女はルナリスという“今を生きる姿”の中に、確かに息づいているのだ。
ルナリスを想うたび、罪悪感に似た痛みが胸を刺していた。
彼女の今を尊重するあまり、過去を封じ込めようとしていた。
けれど、本当はそうする必要などないのではないか。重ね塗られた絵画のように、理沙はルナリスの輪郭の内に在り続けている。
その事実を受け入れたとき、胸を締めつけていた後ろめたさは、不思議なほど静まっていった。
「……難しく考えすぎだったかな」
苦笑混じりに呟くと、カイルが訝しげに眉をひそめる。
「何の話だ」
「いや……やっぱり祖父ちゃんはすごいなって」
リヒトは少し顔を赤らめながらも、自然に笑みを零す。
その笑顔を受けて、カイルは満足そうに鼻を鳴らした。




