【記憶】 本宮理人②
秋が過ぎ、冬の寒さが和らいでいく。
緑が芽吹く春から、やがて太陽が照りつける夏が訪れる。
季節が一巡するころ、理人は十七歳になろうとしていた。
この年頃の子供たちは、多くが学校へ通うらしい。しかし、理人はそうしなかった。
理沙の母はすでに他界し、幼い頃に離婚して以来、父とは連絡も取り合っていない。経済的にも余裕のない本宮家では、生活費を稼ぐため、理人も姉も働くしかなかった。
理沙は何とか高校を卒業し、仕事に明け暮れながら家計を支えていた。理人もまた、朝から夜にかけてコンビニや飲食店で働き、毎晩くたくたになって帰宅する。
王族という、恵まれた環境での生活とは、何もかもがかけ離れた日常。剣の修行やギルドの依頼をこなすのとは違った疲労感に、初めは心身ともに圧倒された。
理人は、なにかに追われるように動き続けた。そうでもしないと、自分の存在があやふやに感じてしまい、恐ろしかった。
あるいは、存在しない記憶を植え付けられた理沙への、罪滅ぼしでもあったかもしれない。
異世界から来た自分を、何も知らぬまま、弟として受け入れざるを得なかった理沙。
彼女の眼差しは、いつだって優しさに満ちていた。本当の弟として見守り、慈しんでくれた。
たとえその記憶が偽りであろうとも、理人には、彼女の存在が何よりも支えとなった。
店先で顔を合わせる人々や、同じアルバイト仲間との会話。些細なやり取りの中で、この世界の生活が少しずつ馴染んでいく。友人もできた。
何より驚かされたのは、現代の街に溢れる娯楽の数々だった。
カラオケやボーリング、ショッピングモールの遊戯施設に足を運ぶと、どこも夜遅くまで人の笑い声で賑わっている。ネオンの光が灯る街を歩きながら、理人は想像もできなかった楽しさに目を奪われた。
家に戻れば、テレビや漫画、アニメ、ゲームなど、多彩な文化の数々。中には、異世界転生や転移を題材にした作品もあり、不思議な親近感を覚えながら画面を眺めた。
しかし、どれだけ文明に触れても、星は見えなかった。
夜空を見上げるたび、理人は広い草原や流れる星の光を思い出す。
溢れ出るのは、懐かしい故郷への想い。彼は帰ることを諦めてはいなかった。
だが――。
自身の心境の変化に気付いたのは、いつのことだろうか。
帰還ついて考えると、同時に、胸の奥がちいさく軋む。
気がかりなのは、理沙のことだ。
共に暮らすうち、彼女の存在は、理人にとって不可欠なものになっていた。
休日の朝、二人で台所に立ち、簡単な朝食を作るとき。
雨の午後、畳に寝そべって、ひとつのテレビを共有する時間。
冬の夜、壊れたストーブを眺めて、ふたりで毛布にくるまったこと。新しいコタツに目を輝かせて、暖を取り合ったこと。
すべてが慎ましく、しかしかけがえのない思い出となって、理人の心に積み重なっていった。
離れたくない。
そう願うほどに。
姉弟の暮らしは穏やかに続き、何度目かの春が訪れていた。
理沙、二十歳の誕生日。
この国では、大人への一歩を踏み出す、特別な節目とされる年だ。
自室の机に向かい、理人は小さな箱と睨み合っていた。
不器用な包装紙に簡易リボン。見よう見まねで何度も包み直した痕跡が、箱の角にいくつも残っている。
苦笑しながら、指でリボンをなぞる。
ずっと悩んでいた。
理沙への誕生日プレゼントを、何にするか。
結局、選んだのは本来の世界から持ち込んだもの。
祖母から受け継いだ、アイオライトのペンダント。
転移のとき、偶然にも身につけていた品だった。
店舗で見たアクセサリーは、どれもしっくりこなかった。理沙自身も「大げさなことはしなくていい」と笑っていた。
それでも、理人はどうしても彼女を祝いたかった。
――いつか、大切な人ができたら贈りなさい。
そう言った祖母の声が、耳に残っている。
この先、彼女以上に大切に思える相手が現れる気はしない。なにより、理人はこのペンダントを理沙に持っていてほしかった。
顔を上げた瞬間、ふと鏡が目に入る。
そこに映るのは、転移したときから変わらぬ十六歳の姿。
髪型や服装で誤魔化してはいるものの、いつまで隠し続けられるのか。
理沙には「成長が止まっちゃったね」と冗談めかされ、友人には「童顔だ」とからかわれる。
笑ってやり過ごす一方で、理人は胸の奥にひやりとした恐怖を抱えていた。
この世界において、自分はやはり異物なのだ。
理沙や友人の記憶を騙しながら、留まり続ける日々。
いつかは離れるときが、離れなければいけないときが来るのだろう。帰還の可不可に関わらず。
鏡に映る少年の姿を見るたび、理人はそれを思い知らされる。
(……そろそろ、帰ってくる頃かな)
不安を押し殺すように立ち上がり、壁にかかる時計を見上げた。時刻は夜の十時を過ぎている。
「誕生日だもん。今日は残業なんてしないんだから」と理沙は意気込んでいたけれど――。
そのとき、玄関の扉が音を立てて開かれた。
仕事を終えた理沙が帰ってきたのだ。
「ただいま~。もう、今日こそは定時で帰れると思ってたのに……!」
「おかえり、夕飯できてるよ。先に食べる?」
「そうする。もうお腹ペコペコ」
食卓には、手作りの料理が並んでいた。
メインはハンバーグ。以前作った時に、彼女が好きだと言ってくれた料理。
さらには、苺が飾られたホールケーキ。小さいながらも、二人で分けるには十分すぎる大きさだ。
「すごい……!」
目を輝かせ、理沙は嬉しそうに食卓を見渡す。
少しだけ大人びた笑顔。しかしその無邪気さは、出会った頃から変わらない。
「姉さん」
真剣な声で呼びかけると、振り返った理沙と目があった。黒い瞳に囚われて、理人は言葉を見失う。
珍しく緊張の色を見せた弟に、理沙もわずかに表情を引き締めた。
「あの……これ。誕生日プレゼント」
理人が差し出したのは、先ほどまで睨み合っていた小さな箱。
驚きに目を見開きながらも、理沙は壊れ物を扱うように慎重に受け取った。
震える指先で包装を解き、蓋を開く。
現れたのは、青みがかった紫色の石をあしらったペンダントだった。
「……綺麗」
息を詰まらせるような声で、理沙は小さく呟いた。
「アイオライト、っていう宝石らしい」
理人は、祖母の受け売りを口にする。
宝石にはてんで詳しくない理人だが、その響きだけは不思議と覚えていた。
「姉さん、自分のことには無頓着だから。こういうの、ひとつは持っていてもいいんじゃないか、って」
理沙は何かを言いかけ、そして言葉を呑み込む。
かわりに、ペンダントをそっと手に取り、瞳を潤ませながら笑った。
「ありがとう」
たった一言に、胸が熱くなる。
「ね、付けてくれる?」
理沙は背を向け、黒髪をまとめてうなじを見せた。
どきり、と理人の心臓が跳ねる。
少し背の高い姉の、細く白い首筋。そこへチェーンをまわし、慎重に金具を留める。動揺を悟られぬよう、息を殺して。
「はい、どうぞ」
おどけたようにぱっと手を離すと、理沙が振り返った。
その胸元で、アイオライトが小さく揺れる。
嬉しそうに微笑む彼女の姿は、その輝きごと、理人の記憶に焼き付いた




