56話 炎蹄馬③
灼熱の荒野が懐かしい。
太陽の焼き付く光、乾いた風、遮るもののない空――そんな故郷が。
戦いに傷つき、あるいは旅の途上で力尽きた者たちを、安らかな眠りへと誘う。
それこそが、彼に課せられた使命であり、誇りであった。
ずっと、そうしてきた。
気が遠くなるほどの長い年月を。
だが、いつからか昏き声が響くようになった。
声は囁き、命を侵し、やがて憎悪と苦痛で彼を駆り立てる。
帰りたい。
還りたい。
大いなる母の懐へと。
身の内で叫ぶ声。
抗えぬ衝動。
蝕まれた体は屍と化し、ただ炎だけが魂を繋ぎ止めた。
そして今、ようやく解き放たれる。
炎は破壊と再生を司る。
この魂も、いつかまた巡り来たるだろう。
あの懐かしき大地を、再び駆け抜ける日のために――。
戦いから数日後、領主邸の客間にて、ルナリスは小さな黒い欠片を掌にのせて眺めていた。
炎蹄馬は、最期の瞬間に骨ひとつ残さず燃え尽きた。
残されたのは、以前拾ったこの欠片だけ。
一体これは何なのだろう。
なぜ炎蹄馬はあそこまで暴走したのだろう。
考えても答えは出ない。
(オキニスや黒曜石とも違う。そもそも、宝石ではない気がする)
宝石産出国で生まれ育ったルナリスには、その真贋を見極める目が多少なりとも備わっている。もっとも、正式な鑑定士のようにはいかないが。
いま目の前にある欠片は、よく知る宝石の輝きとは、どこか違って見える。
「だめ。全然わからない」
ルナリスはため息とともに、ソファーへ深く身を預けた。
窓の外に目をやると、夕刻に差し掛かっているのに、太陽はいまだ高く輝いていた。大地を照らす光は穏やかで、戦の傷跡を包むように柔らかく降り注ぐ。
青嵐の季節とは、こんなにも昼が長いのか――。
ノクティリカにいたままでは、知れなかった光景だ。
ぼんやりと外を眺めていると、客間の扉がノックされる音が聞こえた。
「どうぞ」
短い返事のあとに扉が開いて、リヒトが入って来た。その歩みは、まだどこかぎこちない。
彼は戦の後始末に追われ、足の手当てもそこそこに働き続けていたらしい。
ガントやラセルに諫められても動き続けたのは、彼なりに思うところがあったのだろう。あるいは、体を動かすことで、雑念を振り切りたかったのかもしれない。
軽い捻挫なので、じきに治るはずだ。とはいえ、身分を顧みず行動するのは、悪い癖としか言いようがない。
「無理するから治りが遅れるのよ」
思わず口をついて出た小言に、リヒトはばつが悪そうに笑った。
彼が視線を落とす。その先には、今しがたまでルナリスが睨み合っていた、あの欠片があった。
「それ、まだ持ってるんだ」
ルナリスが頷くと、リヒトは少し不安げな表情を浮かべた。
「触っても大丈夫なやつ? 今度はルナリスに取り憑いたりしたら……」
「取り憑くって、幽霊じゃないんだから。それに、もうなにも感じないから、大丈夫よ」
安心させるように言って、そっと欠片を布に包む。
手元を見つめながら、ルナリスはふと思う。
リヒトは、この力について何も尋ねてこなかった。にもかかわらず、自分を信じてくれた。
そのことに、感謝の気持ちが湧き上がる。
同時に、彼に対して「力」のことを打ち明けられなかった申し訳なさも。
リヒトが真実を隠していたように、自分もまた隠し事をしていたのだ。
一方的に怒ってしまったことを思い返し、ルナリスの胸には後悔が滲んでいた。
リヒトはなおも心配そうにそれを見つめていたが、やがて気を取り直すと、向かいのソファーに腰を下ろした。
「そう言えば、あの戦いのときに、気になることがあって」
「気になること?」
「うん。炎蹄馬が放っていた黒い靄――“瘴気”って呼ばれるものなんだけど、あれが川の水を汚染するのを見たんだ」
その言葉に、ルナリスは思わず息を呑んだ。
ふたりの視線が交わる。瘴気とノクティリカの水質汚染。偶然とは思えない関係が、頭を過る。
リヒトの瞳にも、同じ予感が宿っていた。
「でも、水源に異常は無かったわ。そうなると、汚染は水の通り道から……」
「詳しい調査をしてみないと分からないけど。でも……きっと無関係じゃないと思う」
「そうね。とりあえず、このことは書簡にまとめて送るわ」
ルナリスはそう言って、肩をすくめる。
「本格的な調査となれば、私の出る幕はなさそうね」
リヒトや兵たちの怪我が癒えたら、いよいよ最終目的地である南部エルトノア領への旅が再開することになる。しかし、瘴気のことがどうしても気がかりだった。
それを察したのか、リヒトはとある提案をする。
「エルトノア領に着いたら、一度、炎蹄馬の伝承が残る地域まで行ってみないか」
「え……」
緑の瞳は、まっすぐにこちらを見つめている。
脳裏に浮かぶのは、炎蹄馬にとどめを刺した時のこと。彼の瞳は、勝利の歓喜ではなく、悲しみの色を湛えていた。
きっとリヒトも、原因を知りたいのだろう。
「炎蹄馬が暴走するに至った黒い石。あれが瘴気の原因だとすると、おそらく南部地域のどこかに手がかりがあるはずだ」
その提案は、ルナリスにとっても渡りに船だった。
祖国の水質汚染に瘴気が絡んでいるとしたら、彼女としても無視できない。解決策に至らなくとも、なにか糸口を見つけられるかもしれない。胸の奥に、小さな希望の火が灯る。
「そうと決まれば、滞在を伸ばせるよう申請しなければね」
席を立ち、歩き出そうとしたルナリスを、リヒトが呼び止めた。
振り返った先に見える彼の表情は、真剣でありながら、どこか気まずげでもある。
「本題は、別にあって……約束しただろ」
戦いの前に交わした約束を、思い出す。
しかしルナリスは、すぐに首を横に振った。
「まずは休んで。なによりも、今はあなたに休息をとってほしいの」
リヒトは一瞬目を丸くさせたものの、歩み寄って彼女の手を取った。戦いのせいで、その手は傷だらけだ。ルナリスはそっと撫でるようにして握り返す。
「大丈夫。もう……逃げたりしないから」
小さな声で告げた彼女に、リヒトは優しく微笑んだ。
「じゃあ――明日の宴のあと、時間をもらえる?」
明日は、勝利を祝して大きな宴が催される予定だ。この国の民は、ことあるごとに宴を開く。嬉しいことも、楽しいことも、あるいは悲しみさえも、大勢で分かち合おうとする。そうして心を寄せ合うのが、ウォルフワーズの人々の生き方なのだろう。
ルナリスは静かに頷いた。
窓の外から乾いた風が、夏の訪れを告げるように吹き抜けていく。
ふたりの関係も、新たな季節を迎えるのかもしれない。そんな予感が、彼女の胸を満たしていた。




