55話 炎蹄馬②
炎蹄馬との戦いは熾烈を極めた。
黒い瘴気が大地を焦がし、振り下ろされる脚は岩をも砕く。
ゼファーの背に跨ったリヒトは、その巨躯を翻すようにして攻撃をかわした。
俊敏な足運びがなければ、とてもここまで食らいつくことはできなかっただろう。ゼファーの息遣いと自らの鼓動が重なり、彼は一瞬ごとに生死の境を駆け抜けていた。
嘶きと唸りが交錯し、夜気を裂く轟音が幾度も響いた。
リヒトの腕には血がにじみ、呼吸は荒い。それでも彼の瞳には決して退かぬ光が宿っていた。
「殿下! 矢の装填が完了しましたぞ!」
騎馬隊の隊長であるガントが、リヒトに向かって叫ぶ。
川沿いに設置していた巨大弩砲が、炎蹄馬へと向いている。ほとんどは薙ぎ払われてしまったが、ひとつだけ、使用可能なものが残っていたのだ。
リヒトは合図を送ると同時に、目標から距離を取る。弩砲の矢に貫かれれば、こちらの命がない。
弦が軋む音と共に、放たれた矢が炎蹄馬の胴を正確に射抜いた。
巨体が揺れる。
「続けて打て!」
ガントが力強い号令を飛ばす。
矢は次々と放たれ、土を抉り、炎蹄馬の足元を揺さぶる。獣は悲鳴のような嘶きを上げ、たまらず膝を折った。
だが、穿たれた傷口から滲み出したのは、血ではなく黒い瘴気。肉片が不気味に蠢き、強引に再生しようとする。
兵たちの背筋に、ぞわりと恐怖が走る。
その間にも、再装填を終えた弩砲が、再び矢を放とうとした。
「待って!」
刹那、戦場に似つかわしくない声が響いた。
リヒトはすぐさま反応する。振り返れば、川辺に駆け寄ってくる金色の髪が見えた。
ルナリスだ。
「なっ……! どうしてここに!? 危ない、下がれ!」
思わず怒鳴るリヒト。しかし彼女は引くことなく、リヒトのもとへやって来た。
差し出された手の中では、小さな黒い欠片が鈍く輝いていた。
「この欠片から伝わってくるの。苦しそうな声が……」
ルナリスの瞳は真剣そのものだった。
リヒトは一瞬で悟る。
炎蹄馬の胸元に埋め込まれていた、あの石と同じもの――。
「あいつの胸元にも、黒い石が嵌っていた。もしかして、これが原因で……?」
「分からない。でも、なにか関係があるはず」
ふたりの視線が交差する。
リヒトは静かに頷くと、
「……あの石を砕く。危ないから、離れていてくれ」
そう言って、共にやって来たライラへ目配せをすると、彼女を下がらせた。
炎蹄馬は、なお立ち上がろうとしていた。膝を震わせながら、敵意をむき出しにして。
リヒトは狼の背に跨ると、毛並みをそっと撫でた。
「ゼファー、頼む……奴の懐に飛び込ませてくれ!」
黒狼は短く咆哮し、地を蹴った。
突進するリヒトを炎蹄馬が迎え撃つ。
瘴気を纏う前足を高く掲げ、後足で立ち上がる。
――いまだ!
ゼファーの背から飛び出したリヒトは、渾身の力で剣を振り下ろす。刃は炎蹄馬の胸元を穿ち、黒い石を直撃した。
パキン、と鋭い音。
次の瞬間、石は蜘蛛の巣状の亀裂を走らせ、粉々に砕け散った。
巨体が崩れ落ちる。リヒトは地面を転がり、砂を噛んだ。
「リヒト!」
制止を振り切って、ルナリスが傍らに駆け寄る。ゼファーも一緒だ。
「大丈夫!? もうっ、あんな無茶して……!!」
「いてて……何とか、無事みたいだ」
ルナリスの肩を借りて立ち上がる。転げた際に足を捻ったようで、鈍い痛みが走った。
だが、それに構っている暇はない。
「あいつは……」
顔上げると、そこには、哀れな獣の目があった。光を失いつつあるそれは、痛みと解放を訴えるように揺れている。
瘴気は薄れ、炎蹄馬は荒い息を漏らしながらも、もはや抵抗する力を持たなかった。
「救ってやれないのか?」
零れた呟きに、ルナリスは首を振った。
命の灯火が消えようとしていることは、誰の目にも明らかだった。
「……楽にしてあげなさい、リヒト」
背後から、ライラの低い声がかかった。兵たちもまた、息を呑み、誰もが口を閉ざしたまま事の成り行きを見守っている。
リヒトは痛む足を引きずりながら、一歩、また一歩と炎蹄馬のもとへ歩み寄った。
緑の眼差しは、苦悩に満ちていた。
やがて彼は剣を逆手に構え、震える獣の喉元へと突き立てる。
炎蹄馬はかすかな嘶きを残し、ようやく解放されたかのように最後の涙を流す。
俯くリヒトの背に触れながら、ルナリスがそっと寄り添う。せめて、彼がひとりで悲しまぬように。
夜の大地には、沈黙だけが広がっていた。




