54話 炎蹄馬①
時は遡り、ルナリスが討伐隊を見送った後のこと。
続くようにサフィナとオズが出立し、宴を終えた屋敷は夜の静けさに包まれていた。
宛がわれた寝室内で、ルナリスは落ち着かずそわそわと身体を揺らす。
歩き出しては窓辺に立ち、外の闇を覗き込む。机へ戻り、置きっぱなしの本をめくってはすぐ閉じる。
何も見えないと分かっているのに、それでも視線は何度も窓へと向いた。
(大丈夫……みんな必ず帰ってくる)
信じていても、心配は尽きない。
相手は炎を司る魔獣。しかも今回は、侍女のサフィナまで加わっている。
自分には何もできないという無力感が、じわじわと彼女を締めつけていた。
その時だった。
ふと、かすかな歌が耳に触れる。
今にも途切れてしまいそうな、小さく、痛ましい歌声。
ルナリスは耳を澄ました。
音の出所を辿った先には、ハンカチに包まれたままの黒い欠片。宝石が薄く剥がれ落ちたような、不思議な破片だった。
水源付近の、炎蹄馬が降り立ったと思わしき場所に落ちていたものだ。
そこから確かに、声が流れていた。
苦しげな響き。同時に、心をじわりと侵食していくかのような、昏い思念。
これまでのあいだ、破片に異変を感じたことは一度もない。手掛かりになりそうなことは何ひとつなく、結局ただの思い過ごしかと、いつしか頭の片隅へと追いやってしまっていた。
だが、
(やっぱり、炎蹄馬となにか関係あるんじゃ……)
そう思った瞬間、いても立ってもいられず、彼女はライラのもとへ向かった。
「リヒトのところへ行きたい?」
突然の申し出を聞いたライラは、しばし黙り込んだ。
ルナリスは言葉を探したが、自分にしか聞こえない「歌」について説明できるはずもなく、ただ視線を伏せるしかなかった。
それでも行かなくてはならない。胸の奥でその思いが強くなる。
もどかしそうに口を閉ざすルナリスを見て、ライラはふっと笑い、迷いなく身支度を始めた。
「行きたいんでしょ?」
戸惑うルナリスに、ライラは短くそう告げる。そして肩をすくめながら付け加えた。
「丁度、あたしも気になることがあってさ」
ライラの声音は気軽なものだったが、本当は彼女自身も抑えきれないほどに心配している様子が伝わってきた。
二人は領主邸の門を飛び出し、馬を走らせた。
駆けながら、ルナリスは声を張り上げる。
「そう言えば、気になることがあると仰っていましたが」
少しの間を置いて、ライラは苦笑混じりに答えた。
「たいしたことじゃないんだけどね」
月明かりを仰ぎ見る横顔は、どこか遠い昔を思い出すようだった。
「“さすらいの冒険者”っていう小説、知ってる?」
ルナリスは微かに目を瞬かせ、それから頷いた。
「知ってるもなにも……私の大好きな本です」
胸の奥に、幼い日の記憶が呼び覚まされる。
紙の匂い、寝る前に母に読み聞かせてもらった声。文字が読めるようになってからは、何度もひとりで読み耽り、冒険の世界に胸を躍らせたものだ。
その物語の中で、主人公は「赤翼の災禍」と呼ばれる古竜と戦い、相棒の狼を失う。そして、その魂を導くものとして“神馬”が現れるくだりが――。
「あっ!」
思い返してみれば、炎蹄馬の伝承とそっくりではないか。
「どう? まるであの魔物のようじゃない?」
一瞬、言葉を失う。たしかに似ている……けれど。
「……でも、あれは架空のお話では」
「そう思うでしょ? 実はあの物語って、ウォルフワーズで実際にあった出来事をもとにしてるの」
ルナリスは思わず息を呑んだ。
「竜を倒した主人公、赤翼の討伐者っていうのはね……今の国王――アーデルハルト陛下なのよ」
「ええっ!?」
衝撃で胸が高鳴る。
子供の頃、夢中になって憧れた物語の主人公が、まさか現王その人だったなんて。
確かに、若い頃は冒険者として名を馳せたと耳にしていたが。
「その戦いで、陛下は愛馬を失ったの。それを偲んで、作家に書かせたって話よ。だから……真実を元にした物語なら、炎蹄馬は、本来なら狂暴な存在じゃないのかもね。むしろ“神馬”とまで記されているくらいだし」
ルナリスの中に、ひとつの仮説が芽生える。
やはり、あの黒い欠片が炎蹄馬を蝕んでいるのではないか。
目的地に近付くにつれて、耳に届く歌は大きくなっていく。微かに響くだけだった調べは、苦痛と憎悪がせめぎ合う悲痛な旋律へと姿を変え、はっきりとルナリスの心へ届いていた。
そして現在――。
ルナリスは手元の魔道人形に向かい叫んでいた。
「リヒト!」
踏み潰されるような嫌な音を最後に、ぷつりと途絶えた『お知らせ君』の通信。
何度も繰り返し呼びかけるが、人形は黙ったまま、なにも語らない。
傍らに控えるライラも、険しい顔で眉根を寄せていた。
「……ただ事じゃなさそうね」
落ち着いているように見えて、声にはかすかな緊張が混じっていた。
二人は既に馬に跨っている。蹄が地面を打つたびに、不安が加速していく。
今この瞬間にも、リヒトの前に炎蹄馬が立ちはだかっているかもしれないのだ。
急がなければ、彼のもとへ。
(お願い! 間に合って!)
頬をかすめる風が冷たく感じるのは、夜のせいか、それとも焦燥ゆえか。
手綱を握る指先に力がこもる。ルナリスは馬の背で身を伏せ、必死に思いを前へと押し出した。




