53話 アメフラシ作戦③
『アメフラシの象』の鼻から降り注ぐ水が、炎蹄馬の全身を覆った。
ジュウ、と肉が焼けるような音が響く。獣の皮膚ではない、炎そのものが苦しげに身をよじっている音だ。
嘶きが夜空を裂き、赤々と燃えていた蹄がむき出しになる。
肩から胸へと伸びる炎の筋も弱まり、灼熱の波動が和らいでいく。
リヒトは見た。
炎蹄馬の胸元、前足の付け根の間あたり。焦げついた毛並みの奥に、黒光りする小さな物体が埋まっている。金属片か、あるいは宝玉だろうか。
しかし、考える暇はなかった。
「ッ!」
炎蹄馬が再び地を蹴り、突進してくる。
熱は収まったものの、蹄の周囲にはいまだ黒い靄がまとわりついていた。
(瘴気ってやつか)
地面が、じわりと黒く変色していく。蹄に触れた場所から毒に侵されるように。
駆けつけたゼファーが、大地を蝕むものの恐ろしさを知らせるように、警戒の唸り声を上げた。
「距離を取れ! 通常矢に切り替えろ!」
リヒトの指示に、弓手たちは一斉に構えを改める。鋭い鉄の矢じりが、獲物を討たんと向けられた。
だが、暴れ狂う獣はそれをものともせず川縁へと踏み込み、『アメフラシの象』へ後ろ脚を叩きつけた。轟音とともに、象の胴体が無残にひしゃげ、部品が宙を舞う。
「サフィナ!」
「危ないっ!」
オズが咄嗟に彼女を抱き寄せ、背中から川へと投げ出された。
冷たい水しぶきが上がり、二人は咳き込みながらも必死に岸へと這い上がる。その姿を、炎蹄馬の眼が捉えていた。
ぬかるみに足を取られれば逃げ切れない。リヒトは素早く愛馬からゼファーに飛び移り、二人を引き上げに向かう。
「安全な場所まで!」
自身の代わりにサフィナたちを背に乗せ、短く命じる。ゼファーは地を蹴り走った。
残されたのはリヒトと炎蹄馬。再びまみえた人と獣は、川の中央で向き合う。
蹄の下から、黒い靄が水に溶け出し、川の流れを淀ませていく。
それを見た瞬間、リヒトは舌打ちし、岸へと駆け出した。水が汚されれば、下流の集落まで被害が及ぶ。
(水の汚染だって?)
ふと、あることに思い至るリヒトだったが、即座に思考は打ち切られた。
考え事ができるほど、この相手は甘くない。背後には、地面を蹴る音が迫ってきている。
振り返る暇もない。そんなリヒトの腰元で、今度は『お知らせ君』が短く鳴った。
『――リヒト、聞こえる!?』
突如響いたのは、ルナリスの声。
リヒトは思わず息を呑む。
『炎蹄馬のことで、伝えなきゃいけないことがあるの! あいつは――』
嘶きがすぐ後ろで聞こえた。炎蹄馬の前足が、まさに振り下ろされようとしていた。
「……くっ!」
影が覆いかぶさるその刹那、黒の疾風が割り込んだ。ゼファーが体当たりするようにリヒトを押し飛ばし、そのまま腰のベルトを咥え上げた。
蹄が地面をえぐる。衝撃で土埃が巻き上がった。
腰元から『お知らせ君』が千切れて、地面へと落ちる。そして無情な破裂音を響かせて、蹄の下敷きとなった。
『――っ……ひ、ト……』
ルナリスの声は途切れ、獣の息遣いだけが残る。
一体、彼女は何を伝えたかったのか。
答えは、もう聞こえない。




