52話 アメフラシ作戦②
夜闇が、大地を色濃く包み込む。
街道沿いから牧草地帯まで、分隊に分かれた兵士たちの影が広く点在していた。草木が風に吹かれてざわめくたび、不安げな馬の嘶きが響く。
「……こちらは未だ異常なし」
兵士のひそやかな声が夜に溶ける。緊迫した空気はひどく重かった。
遠くに、ぽつりと光が立ち上った。松明の灯りではない。
誰もが息を呑み、その光景を見つめた。
やがてそれは四肢の動きに合わせて揺れ動き、周囲の闇を赤く照らし出す。
「そ、そこに……! 炎蹄馬、出現! 繰り返す、炎蹄馬――」
蹄が地面を叩き、火花が散る。
伝令の兵士は震える手で『お知らせ君』を掲げた。魔道具が不思議な音を立て、夜空に向かって光を放つ。
砦で報告を待っていたリヒトの耳にも、その音が届いた。
「……来たか」
彼の目が鋭く光る。
すぐに行動の準備を整えねばならない。
アメフラシ作戦が、とうとう始まった。
闇を切り裂くように現れた炎蹄馬を、リヒトは遠くから見据えた。
炎の蹄が描く軌跡は、夜空を流れる星のよう。その美しさは恐怖と隣り合わせだった。
「各分隊、位置につけ!」
リヒトの短い号令が、魔道具を通して各所に伝わる。息を詰め、兵はそれぞれ指示通りに動く。
「……北東、炎蹄馬確認」
「こちら東南。誘導補助のため、移動中」
次々と届く報告に目を細め、リヒトは戦場全体の配置を頭の中で再構築する。
作戦は、各分隊が炎蹄馬を川辺へ誘導し、オズの魔道具『アメフラシの象』で炎を弱体化させるというもの。だが、実際に炎蹄馬を誘導するのは容易ではない。荒ぶる魂を前に、冷静な判断と指揮が試される。
兵たちの矢筒には、先端を削った木の枝――簡易的な囮矢が詰まっている。直接の攻撃には向かないが、奴の注意を引き、進行方向を誘導するには十分だった。
どのみち、あの炎を弱体化できなければ、通常の矢は届かない。命を守る手立ては少なくなるが、矢の消耗を防ぐためには致し方のないことだった。
「矢が切れた者は速やかに後退し補充しろ。決して無理をするな」
リヒトはすでに、魔道具が設置されている川沿いへと移動している。誘導は、この作戦を信じて戦ってくれている兵たちに任せるほかない。
「ラセル、迎撃隊を配置につかせてくれ。オズ、サフィナ、魔道具の準備はできているな?」
「は、はいぃ!」
簡潔な指示を飛ばしつつ、リヒトは迎撃隊の前へ出た。馬の群れが近づくたび、地面が微かに震える。
「動くかな、大丈夫かな……」
「オズさん、自信持って!ほら、“絶対出来る!” 復唱っ!」
「えぇっ!? ぜ、ぜったい、できるぅ……」
「声が小さいですっ!」
影から聞こえるやりとりに、思わず笑みが漏れる。
力強い味方だ。彼らも、そして魔道具という存在も。
先の襲撃時では考えられなかった勝利への道筋を、わずかに照らしてくれる。
ふと、視線の先に火の粉が躍った。炎蹄馬だ。
その周りを付かず離れず、騎馬隊が駆ける。
炎蹄馬は川辺に近づく。赤く燃える蹄の光が水面に反射していた。
弓手たちは矢を放つ間隔を絶妙に調整し、獲物の進路を巧みに誘導していた。粗末な作りの矢は、まっすぐ飛ばすだけでも容易ではない。だが、それを当然のようにやってのけるのが、最強の戦力と名高いグランメルの騎馬隊だった。
放たれた矢は、あっという間に灰と化す。それでも、その一瞬の動きが炎蹄馬の注意を引きつけ、自然と川辺へと追い立てていく。
(よし、その調子だ!)
リヒトは声を潜め、背後を振り返る。そこではオズとサフィナが、緊張した面持ちで号令を待っていた。
「サフィナ、布を外してくれ!」
「了解です!」
掛け声とともに、魔道具を覆っていた布が外される。姿隠しの天幕によって隠されていた『アメフラシの象』が、全貌を現した。
そこに立っているのは、金属の塊――ではない。不格好な姿ながらも、異国の象という獣を模した、大きな魔道具だった。
「ははっ、アメフラシの“象”か。まさしくって感じだな」
一瞬、兵たちの間に驚きの声が上がる。冷静なラセルでさえも言葉を失っていたが、すぐに意識を切り替えると、隊の集中を取り戻すことに務めた。
無理もない。この国では、像という生き物を見る機会など滅多にないのだから。
かくいうリヒトも、前世で一度だけ、動物園という奇妙な施設で見たことがあるくらいだ。記憶の中にある姿よりも大分ひしゃげてはいるが、特徴的な長い鼻だけは、本物のように作られている。
「サ、サフィナさん! 陣の中に、魔力を流してください!」
「はいっ!」
魔道具の足元に彫られた円陣へ、サフィナが触れる。同時に、オズは手元のレバーを引く。巨大な金属の鼻がゆっくりと動き、炎を反射し煌めいた。
ゴボゴボ、と音を立てて、川の水が吸い込まれていく。尾の部分が太い筒となっており、それが川の水を汲み上げているのだ。
時折、咽て咳き込むような不穏な音を立てながらも、像は長い鼻を高々と掲げた。
そして――。
「炎蹄馬、魔道具まで接近!」
誘導隊として先陣を切っていたガントの声が響く。
風が焼けるように熱い。鼻腔に焦げた草の匂いが刺さる。
炎蹄馬の赤い眼光が、闇の中からこちらを射抜いた。
「よし、今だ!」
号令と共に、大量の水が溢れ出す。
空に向けて放たれたそれは、すぐに無数の雫となって炎の獣へと降り注いだ。




