50話 決意⑤
ルナリスはライラの後について裏庭へと向かった。
空気は涼やかで、夜露を含んだ草の匂いが胸いっぱいに広がる。
小さな池を囲む花園、その奥に並ぶのは剣や弓の鍛錬場。王宮の洗練された庭に比べると、植物の生命力や土の匂いを強く感じられる。鍛錬場の占める面積の大きさは、武を重んじるグランメル家らしさを物語っていた。
篝火が花々を照らし、水面に影が揺れている。
静けさの中に、鋼が風を裂く音が混じった。誰かが素振りをしているようだ。
ライラに導かれるまま近付くと、その人物の輪郭が浮かび上がる。
「やっぱりここにいた。リヒト!」
集中して剣を振っていた彼は、ライラの呼び声に顔を上げる。
ふと、視線がルナリスに留まった。握っていた稽古用の剣が、カランと音を立てて落ちる。
向けられた瞳の奥に、緊張と、測りかねる感情が入り混じった色が浮かぶ。母とルナリスの姿を交互に見ながら、リヒトは立ち尽くしていた。
頬や首筋に光る汗が、篝火に煌めいた。
ルナリスの背を、ライラが軽く押す。
トン、と。
止まっていた足が、一歩を踏み出した。
ライラはすでに、背を向けて立ち去ろうとしていた。まるで、最初から二人きりにするつもりだったかのように。
残されたルナリスは、そわそわと指を組んだ。
視線が絡みついて離れない。わずかな仕草や呼吸の速さまで、やけに鮮明に感じてしまう。
ゆっくりと歩み寄るふたり。
まだ互いに、表情はぎこちない。
しかし確実に、距離が縮まる。
そして、
「――あのっ!」
まったく同時に声が重なり、きょとんと目が合った。
しばらく、そのまま見つめ合って……。
どちらからともなく、くすりと笑みがこぼれた。
固まっていた空気が少しずつほどけていく。
揺れる草花の葉先に、篝火の灯が柔らかく映り込み、静かな夜風が優しく吹き抜ける。庭の植物たちが、ふたりをそっと見守っているかのようだった。
再び口を開こうとしたルナリスを、リヒトは穏やかに制止した。
「先に、言わせて」
彼は短く息を整え、視線を逸らすことなく続ける。
「ごめん。色々と、隠していたこと。ずっと……言わなきゃって思ってたのに、言えなかった。そのせいで、ルナリスに寂しい思いをさせた……」
リヒトの瞳は、迷いなくルナリスを見据えていた。
少しだけ震える声に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
ルナリスは涙をこらえるようにうつむくと、そのまま一歩近寄り、彼の胸板を小さく叩いた。
「ずるい……私が先に謝りたかったのに」
リヒトはおずおずと腕を回し、背を抱く。
驚くほど近くに感じる彼の体温と鼓動。
胸の奥がじんわりと温かくなり、不安や寂しさがふっと溶けていくようだった。
伝わる鼓動は、自分のそれよりも強く、速い。けれど、その力強さに安心を覚え、ルナリスはほっと息を吐く。
「……本当に、ごめん」
一言に込められた誠実さが深く胸に染みる。
「私の方こそ、ごめんなさい」
素直な言葉が、すんなりと口をつく。
ずっと胸にしまっていた後悔や申し訳なさが、ようやく解放されるようで、涙が滲みそうになった。
「あなたの話を聞こうともせず、避けてばかりだった。……あなたを、“理沙”との絆で縛り付けていた」
リヒトは静かに首を振った。柔らかな赤茶色の髪が頬を擽る。
前世で、よくその髪に指を通したことを思い出す。
撫でるのが好きだった。子ども扱いするなと拗ねる理人が好きだった。
それは家族としての情愛だ。
でも今は違う。
この男性は、もう――。
「……おとうと、じゃ、ない」
ぽつりと零れる声。
そしてもう一度、今度ははっきりと。
「もう、弟だなんて、思ってない」
一瞬、驚いたようにリヒトが息を呑む。
しかしすぐにその意味を理解し、目を細めた。
頬を朱に染めるルナリスを、彼は今度こそ強く抱きしめる。汗の匂いが鼻先をくすぐるが、不快ではない。むしろ、もっと包まれていたいとさえ思う。
(このまま、時間が止まればいいのに……)
鼓動が重なる。
言葉がなくても、こんなにも心にぬくもりが灯るだなんて、知らなかった。
パチリと篝火がはぜる。
その音で我に返ったふたりは、そっと身体を離した。頬に残る熱を隠すように視線をそらしても、瞳の奥には消えない余韻が揺れていた。
「話したいことがたくさんある。でも今は、時間がない」
リヒトは表情を引き締めた。
炎蹄馬討伐のため、彼は一足先に砦へ向かわねばならない。
ルナリスにも分かっていた。彼の祖父より「指揮を任せている」と聞かされていたから。
「帰ったら、ぜんぶ話すよ。だから……待っててくれる?」
ルナリスは頷き、「無事に帰って来て」と言いながら、彼の額に唇を落とした。
「……おまじない」
悪戯っぽく笑うと、リヒトは息を詰めたように目を細め、長い溜め息をついた。
「勘弁してよ……放せなくなるだろ」
遠くから、リヒトを呼ぶ声がする。出発が迫っていた。
「そろそろ行かなくちゃ」
「うん。気を付けて」
彼は走りかけて、もう一度、名残惜しそうに振り返る。
「約束する。この戦いが終わったら――」
「駄目よ、リヒト。その台詞はフラグがたっちゃう」
「……そうだった」
笑い合うと、今度こそリヒトは駆けていった。
ルナリスはその後ろ姿を静かに見送る。リヒトの背中は、もう少年とは呼べないほど大きく成長していた。
(きっと大丈夫)
リヒトは必ず討伐を終えて帰ってくる。私のもとへ。
そう思いながらも、ルナリスは祈るように手を握り合わせた。




