48話 決意③
「アイゼンですよ」
さらりとラセルは答えた。
次第に雲が厚くなり、空気にはかすかに雨の気配が漂い始めた夕暮れ前。ルナリスはグランフィルドの湖畔で、魚一匹入っていないカゴを手に、ラセルに迎えられていた。
そこで先程の質問を直接本人へ投げかけたのだが、あっさり返ってきた意外な人物の名に、ルナリスは驚きの声を上げた。
ラセルは軽く肩をすくめ、苦笑いを浮かべている。
「そんなに驚くことですか?」
「だって、ふたりとも全然、そういう様子を見せないから……」
ルナリスの言葉に、ラセルはすっと目を細め、
「てっきり、やつが言いふらしているものとばかり思っていましたよ」
と笑った。
静かな湖畔の景色を背に、四人はゆったりとした足取りで領主邸へと戻っていた。オズも同じ帰路をたどるのは、ライラから呼び出しを受けているためだった。彼はまるで魂が抜け出しそうな表情を浮かべながら、小声で「なんだろう……また何かやらかしたかな……」と呟いている。
一行の話題はすっかり「結婚」についてで持ち切りだった。騎士団の誰々が恋仲だとか、王都の花屋の看板娘が婚約したらしいといった、顔も知らない人々の恋愛事情に、ルナリスは瞳を輝かせてうきうきしている。
なにしろ、彼女にとってこれが初めての所謂「恋バナ」だったのだ。
実際には、筋骨隆々の大男、女性騎士、そして外套を引きずる隠者のような男という、奇妙な組み合わせ。もし恋話に熱中する令嬢が目にすれば、訝しげな顔をするに違いない。
「ラセルやマシューは、どうして結婚しようと思ったの?」
ふとルナリスから零れた子供のような質問に、マシューは少し考えてから、にっこりと笑った。
「俺はもう、腐れ縁みたいなもんさ。でも、一緒にいるのはあいつしか考えられなかったな」
ラセルも穏やかに微笑みを浮かべて答えた。
「私も似たようなものですよ。理由なんて、大げさなものじゃありません」
「そういうものなの?」
「ええ。ですが……ルナリス様のお立場だと、私たちのようにはいかないのでしょう」
その言葉の後、彼女は静かに尋ねた。
「……殿下とのことを、悩んでおいでなのですね」
ルナリスの胸がぎくりと跳ねる。
殊更明るく振舞おうとする自分の裏側を、ラセルには見透かされているようだった。鋭いまなざしの中に、確かなあたたかさと心配の色が浮かんでいるのを、ルナリスは感じ取った。
少しだけ顔を伏せ、ゆっくりと話し出す。
「リヒト、ね……私に、隠し事をしていたでしょう。水源の調査とか……」
曖昧に濁したのは、前世のことを語れないからだ。それが余計に、ルナリスの言葉を迷わせている。
「色々、怒りたい気持ちもあるの。でも、彼にそうさせたのは、もしかしたら、私なんじゃないかって。そう考えたら……リヒトにとって、私の存在ってなんなんだろう。そんな風に思えてきて……」
口にしてから、胸の奥に沈んでいた思いが、よりはっきりと形を取って押し寄せてくる。
――私は、彼をちゃんと見ていただろうか。
心のどこかで、前世で築いた絆に甘えてはいなかったか。
弟だった頃の姿を重ね、この世界で生きる彼の選択や葛藤を、真っすぐに受け止められていなかったのではないか。
それが知らず知らずのうちに彼を追い詰め、遠ざけてしまったのでは。
そう思うと、胸がひどく締めつけられた。
ルナリスは言葉を失い、小さな手を握りしめる。
マシューもオズも互いに目を見交わし、何か声を掛けたそうにしながらも、ためらっている様子だった。どう慰めるべきか、その正解を見つけられないのだろう。
沈黙を破ったのは、ラセルだった。
「結婚とは、互いに許し合い、受け入れ合うこと……私はそう考えています」
唐突とも思える言葉に、しかしルナリスは聞き入った。なにか、大切なことを伝えようとしてくれている。そんな確信があったから。
「良いところだけを見て、ずっと一緒に過ごせるわけではありません。嫌なところも見えてくるし、理解できないこともある……」
ラセルの声は、目の前に広がる湖面のように落ち着いている。
「でも、それを受け入れて、また喧嘩して仲直りして……そんなことを繰り返しながら、共に生きていくのです」
そして、軽やかに笑いながら言葉を添えた。
「許せないことも、実際はたくさんありますよ? それでも、一緒になってよかったと……これからも、そうありたいと思える相手だからこそ、受け入れられるのではないかと思うのです」
「喧嘩して……許し合い、受け入れる……」
ルナリスが反芻すると、
「まるで、今のリヒテンダルト様とルナリス様みたいですね」
遠慮がちに微笑んで、オズが呟いた。
「殿下のこと、お嫌いですか?」
ラセルの問いかけに、ルナリスは首を小さく横に振り、視線を落とした。
前世の記憶。現世での再会。まっすぐな眼差し。楽しかった旅の思い出。ふとした優しさ。
心に浮かぶ数々の出来事。
彼が向けてくれた笑顔は、前世でも今でも、同じぬくもりを帯びていた。そこに嘘なんて、一度もなかった。
リヒトはずっと真摯に向き合ってくれた。たとえ自分が、彼の姉であろうとなかろうと。
それなのに、自分は何をしているのだろう。
彼の想いを受け止めることもせず、立ち止まっている。
本当は――とっくに答えなど出ているはずなのに。
「踏み出しても……いいの?」
唇を噛み、ルナリスはようやく言葉をこぼした。
「……あんなに真っ直ぐな彼を、私が縛ってしまうかもしれないのに」
言葉を紡ぐルナリスの瞳に、わずかな迷いと戸惑いが揺れる。
それは、長く心に秘めてきた不安の吐露だった。
ラセルはルナリスに向き直り、そっと細い手を取った。
「ルナリス様。どうか、お一人で抱え込まず、素直なお気持ちを殿下にお話しください。あのお方ならば、きっとその気持ちを受け止めてくれるでしょう。そして――」
彼女の瞳は真剣そのもので、静かな力強さを帯びている。
「どうかルナリス様も、殿下のお心を受け止めてさしあげてください」
マシューも頷きながら言葉を添えた。
「それができるのも、きっとルナリス様だけです」
「わたし、だけ……」
その瞬間、雨の匂いを含んだ風がふわりと通り抜ける。
ラセルやマシューの言葉が、湖面に広がる波紋のように心を響かせる。
やがてルナリスは顔を上げ、こくりと頷いた。




