47話 決意②
青空に、白い雲が立ち込めている。
吹く風はじっとりと肌にまとわりつくが、その奥に本格的な夏の匂いが潜んでいた。
ルナリスは、グランフィルドに抱かれた湖の一角に突き出る、寂れた桟橋に腰を下ろしていた。
地元民に「穴場ですよ」と教えられた釣り場だが、竿の先はぴくりとも動かない。
隣ではマシューが渋い顔で水面を見つめ、その向こうには、オズが外套のフードを深くかぶり猫背で座っている。湖面に揺れる影と相まって、幽鬼めいた姿はますます異様に見えた。
(なんだか、不思議な顔ぶれね)
ふさぎ込みがちな彼女を気遣い、マシューが釣りに誘ってくれたのだ。
料理は壊滅的――以前、彼が根気よく教えようとして匙を投げた前科がある――だが、釣りならばと快く応じた。
オズはといえば、今回も市場でばったり会ったところを、ルナリスが半ば強引に引っ張ってきたのだった。
湖面を渡る風や、ささやかな水の音。木漏れ日の揺らぎ。
魚がかかる気配すら見えない竿を握りながら、ルナリスはふたりとの穏やかな会話に耳を傾けていた。
「殿下、お忙しそうですね」
マシューがふと口にする。
「……そうね。最近は、ほとんど顔を合わせられなくて」
忙しさのせい。
実際間違っていないのだが、はたして本当にそれだけだろうか。
気付けば、こちらから過剰に距離を取ってしまっている。目が合っても、すぐに逸らしてしまう。
彼がなにか伝えたそうにしているのも、わかっているのに。
オズが何気なく続けた。
「リヒテンダルト様のご婚約は噂に聞いていましたが……お相手がルナリス様だとは知りませんでした」
そして悪気のない調子で、ぽろりと、
「殿下とならば、今度こそ、ルナリス様もお幸せに――」
言いかけて、オズはルナリスとマシューの視線に気づき、はっと口をつぐむ。
「……今度こそ?」
マシューはきょとんとしていたが、オズは気まずげに視線を逸らす。
ノクティリカ出身の彼なら、遠く離れた故国からも噂を耳にしていたのだろう。
「よ、余計な事を言いました! 申し訳ありません、ルナリス様……!」
額が地に着きそうな勢いで謝るオズに、ルナリスは小さく苦笑した。
「いいのよ。もう昔の話だもの」
そう言って、彼女は自分の過去を語り出す。
かつて、ノクティリカ国五大鉱脈家のひとつに連なる名家の子息と婚約していたこと。
だが、ある日突然、婚約破棄の申し出があったこと。
理由は、男が別の女性との間に子をもうけてしまっていたから。
こちらに非はなく、家格も相手のほうが下。一方的な破棄に父は激怒し、せめて「アイオライト家から破棄を申し出た」という形に整えた。
後に兄が問い詰めると、男は「ルナリスの美しさに劣等感を抱いた。釣り合う自信がなかった」と言ったらしい。だが、ルナリスは心中で、
(建前よ。本当は、魔力のない私を疎んだのでしょう)
と思っている。
恋慕の情があったわけではない。
未練も、後悔もない。
あれは家同士が決めた婚約だったのだ。
ただ、信頼を裏切られたことが悲しかった。
「俺なんかに聞かせていい話なんですかい?」
マシューが眉をひそめると、ルナリスはあっけらかんと笑った。
「この国の王家や貴族の方々なら、みんな知っているわ。王子の婚約者だもの。素性も過去も、調べられるに決まっている」
でも。
ルナリスは、そっと瞼を伏せた。長い睫毛の影が落ちる。
――どうしてこんな私が、第三王子とはいえ王族の婚約者に選ばれたのだろう。
胸の奥で、ふと疑問がよぎる。
「リヒト……殿下は、本当に私でいいのかしらね」
確かに、家の格だけでいえば申し分ない。だが、もっとふさわしい令嬢がいたはずだ。
魔力もなく、この国に何かをもたらせるわけでもない。
世間知らずで、手先も不器用で、素直な可愛い女の子にもなれない。
そんな自分を思うほどに、不安は次第に国の重責から離れ、ただリヒトに対する個人的な想いへと変わってしまう。
無意識にこぼれた声に、マシューとオズは揃って驚いた顔をした。
「何を言ってるんですか、ルナリス様。見てれば分かりますよ。お二人は、いつも互いを気遣ってる」
「は、はい。大事な人なんだって、ちゃんと伝わってきます」
否定しかけた言葉が喉に詰まり、ルナリスはわずかに頬を赤らめる。
まるで自分の心のうちを覗かれてしまったかのような気まずさに襲われて、慌てて目を逸らす。
「そ、そんな風に、見えてるの……じゃなくて、えぇと――」
ぎこちなく声を震わせながら言葉を繋ぐルナリスに、マシューとオズは微笑みを浮かべている。
「そ、それより! あなたたちには、好きな人とか、いないの?」
なんとか話題を変えようと尋ねれば、オズはあっさりと、「僕は女性といるより、発明してるほうが楽しいですから」と言い、マシューは「俺はもう女房と子供が三人いますよ」と笑った。
そして、さらりと続ける。
「俺だけじゃありません。ラセルも結婚してます」
「ラセルが!? 初めて聞いたわ……!」
「まあ、あいつはあまり自分のことを話しませんからね」
ルナリスの脳裏に、ラセルの凛々しい姿が浮かぶ。
金の髪を短く整え、涼やかな灰色の瞳に、真面目さと気高さを宿した女性騎士。まさに物語に出てくる「男装の麗人」といった装いだが、女性らしい心遣いも欠かさないラセル。
そんな彼女の相手とは、一体どんな人物なのだろうか。
「ねぇねぇ、ラセルの旦那様って、どんな方なの?」
興味津々に問うルナリスに、マシューは唇の端を上げた。
「それは本人から聞いてください。噂をすればホラ……来ましたよ」
顎でしゃくった先では、湖岸の道を歩く女性騎士が、こちらに向かい手を上げているところだった。




