46話 決意①
『青嵐の中月、4日。
西の山脈沿いにある村へ到着。この日は、付近の古城跡にて一泊。
魔物の討伐数、スライム十二、キラービー五。
街道沿いにて、ホーンボアの痕跡を発見。警戒を怠らず、引き続き護衛を務める。
本日の食事は黒パン・燻製肉・キラービーの蜜入りスープ。』
『青嵐の中月、5日。
水源への道中、炎蹄馬の痕跡と思わしき焼け跡を発見。辺りを警戒するも、姿は発見できず。
リヒテンダルト王子殿下の一行がホーンボアの群れに遭遇、戦闘。全六頭を駆逐。
その後、水源へ向かい簡易調査を行うも、異常は発見できず。同日のうちに村へ帰還。
本日の食事は黒パン・燻製肉・村の宿にて川魚の塩焼き。』
グランメル領主邸、執務室。
机に広げられた報告書に目を通しながら、カイルは低く唸った。
グランメルを治める領主である彼は、齢六十を迎えてなお、戦士として鍛えられたがっしりとした体躯を保っている。短く刈られた赤色の髪に、風と日差しに晒されて刻まれた深い皺。威圧感こそあれど、静かな眼差しには長年にわたり民を導いてきた重みが宿っていた。
「ふむ……随分と真面目な報告書だ。飯の献立まで記されておる」
獣すら圧倒させるような目が細められたことに、思わずリヒトは苦笑する。並々ならぬ圧を纏うこの男は、ただの微笑ひとつにも迫力がある。
「あぁ、それ。ラセルが、日誌をまとめていたんだ。」
それを聞いて、カイルは豪快に笑い声をあげた。
「なるほどな。どうりで読みやすいと思った。お前の書く字にしては、やけに整っておったからな!」
笑い声が執務室に響く中、開け放たれた窓の扉が湿った風に揺れる。
どこか生ぬるい風だった。
今夜も、雨が降るのかもしれない。そんな予感がした。
リヒトは表情を引き締め、視線を戻す。
水源の異常が確認されなかったことにより、二人の話題は、炎蹄馬へと移っていた。
「やっぱり、炎蹄馬の行動には規則性が見られない。理性を失って、暴走している可能性が高いと思う」
カイルも真面目な顔つきで頷くものの、一点だけ指摘を加えた。
「いや、暴走というより……“向かっている”のかもしれん」
そう言って、机の上に地図を広げる。
リヒトが山中で発見した痕跡を記録した場所には、赤いピンが差されていた。
それは地図の各所に散らばっている。リヒトの言葉通り、一切の規則性を感じさせぬほど、ちぐはぐに。
だが、ひとつだけ、気になる傾向が見て取れた。
「見ろ。なにか、気付くことはないか?」
リヒトが眉をひそめる。
目の前に広がるのは、赤と黒と青、複数の調査記録が重ねられた、複雑な地図だ。
それでも彼の目には、まるで霧が晴れるように、一本の線が浮かび上がる。最初は点と点が、互いに関係を持たないただの偶然に思えた。だが今、地図の上に視線を這わせるほどに、散らばっていた痕跡はゆっくりと、確実に流れていた。ただひとつの方向へと。
「少しづつだけど、北へ向かっている?」
「そう、北だ。ベルク族の村、あるいは……」
リヒトの出した答えに、満足そうに頷きながら、カイルは地図のさらに先に指を滑らせる。そして、
「“ハデスの領域”だ」
息苦しくなるほどの重く、低い声が、そう告げる。
無骨な指が指し示した、黒く塗りつぶされた地点。「ハデスの領域」と呼ばれるそれは、ノクティリカ国内にある、異常結晶地帯だ。
人を寄せつけず、ノクティリカの民たちですら近づこうとしない忌避の地――そこを、炎蹄馬が目指している?
「でも、どうしてあいつが……ハデスの領域へ?」
リヒトの問いに、カイルは首を横に振る。
「確証はない。ただの可能性だ」
しかしその可能性を無視できないことは、ふたりとも理解していた。
カイルは続けて、砦の隊長からも新たな痕跡の報告が届いていることを伝える。
「決着は、そう遠くないかもしれん。できれば、我が領内で終わらせたい」
すでに被害が出ている以上、炎蹄馬の討伐はグランメル領の悲願だ。縄張りを荒らされて大人しくしているほど、この地の民は甘くない。
カイルの決意が滲むその言葉に、リヒトは静かに頷いた。
「分かった。使節団の出発は後回しにするよ。どのみち、炎蹄馬を倒さないと安全が確保されたとは言いにくいし」
「助かる。……ありがとうな」
孫への感謝を口にしたカイルの顔には、どこか柔らかい家族の空気が宿っていた。
ふと、彼は視線を外し、ぽつりと呟く。
「それより……彼女とは、仲直りしたのかね?」
リヒトはわずかに眉を下げ、小さく笑う。
「まだ、です」
水源へ向かったあの日。
ルナリスとの関係は、崩れるように変わってしまった。
決定的な言葉こそ交わされなかった。否定されたわけでもない。
けれど、気づけば、元に戻れないような距離が、ふたりの間にできていた。
リヒトは目を伏せた。
あのとき、もっと早く言葉をかけていれば。
彼女の怒りや戸惑いを、受けとめるだけの器量が、自分にあれば。
ほんの少しの躊躇が、言葉を逃し、触れられるはずだった距離を広げてしまった。
今のルナリスは、自分に対してのみ、完全に口を閉ざしている。話しかけてもただ微笑みを張り付けるだけで、すぐに姿を消してしまう。まるで、美しい幻のように。
胸の奥がじくじくと痛む。
彼女に伸ばしてやれなかった腕の重さが、今になってリヒトの心に圧し掛かってきた。
「祖父ちゃん」
言葉の調子が変わる。王子としてではない、少年のような声だった。
「祖母ちゃんと喧嘩したとき、どうやって仲直りしてた?」
カイルは一拍の沈黙ののち、盛大に吹き出した。目の前で沈み込む孫の顔に、唾が飛ぶほど。
「ははっ、儂はあやつに何度殴られたか分からんぞ!」
記憶の中の祖父母の姿がよみがえる。
子どもの頃、リヒトが館を訪れるたび、カイルの顔には青あざがあった。頬にうっすらと痕が残る日もあれば、目元を腫らしていることもあった。
それでも、領民や家臣の前では何事もないように振る舞い、いつものように背筋を伸ばして政務をこなしていた。
だが、そんな日の夕食には、決まって最高級の嵐牛が食卓に並んだ。
リヒトは一度だけ、料理番の者に尋ねたことがある。
「あれって、おじいさまがご自分でえらんでるの?」
そのとき料理番は、困ったように笑ってこう答えた。
――嵐牛は、奥さまの大好物でしてな、と。
また別の日には、無言で背を向ける祖母に対して、何度も頭を下げる姿を見た。肩を丸め、声もなく、ただただ繰り返す深い謝罪。
その光景をこっそり盗み見て、リヒトはただ黙っていた。
祖父は頑固で強くて、誰にも頭を下げない。
そう思っていた幼い自分には、理解できない姿だった。けれど今なら、少しだけ、わかる気がする。
「でも、最後には、笑って許してくれた。優しいやつだった」
その言葉には、亡き妻への深い想いがにじんでいた。
そしてカイルは、まっすぐリヒトを見る。
「ただ誠実であればいい。それは、お前が一番よく知っているだろう?」
リヒトは静かに頷く。
緑の瞳には、決意の光が鮮やかに宿っている。
もう一度彼女の手を掴みたいのなら、逃げずに向き合うしかない。
拒まれてもいい。許されなくてもいい。
自分の想いだけは、伝えると決めた。たとえそれが、エゴであったとしても。
もう、迷わない。




