45話 崩れる足元②
戦いを終え、なりゆきで合流した一行は、目的地の水源へと歩みを進めていた。
群れを倒したとはいえ、他の魔物がいないとも限らない。風の流れ、草木のざわめき、その一つひとつが敵の接近を告げる兆しのようで、誰もが油断できずにいた。
しかも、少し前には炎蹄馬の痕跡が。
悠長にしている余裕はなく、日暮れまでには村へと戻りたかった。
焦りと不安の中、会話が途切れがちになる。それでも、ルナリスたちはこの数日の出来事を手短にリヒトへ説明した。
その背後では、
「まったく! オズったら、何度本名で呼びかければ気が済むのよ!」
「だ、だって、咄嗟に呼ぼうとすると、つい……」
といったやり取りが繰り広げられている。
リエラは偽名だった。
彼女の本当の名は、ライラ。
ルナリスはその名前に聞き覚えがあった。砦の隊長が、一度口にしていたことを思い出す。
なるほど、リヒトが彼女の宝なわけだ。
なにしろ、血を分け合った息子なのだから。
以前その名を聞いた時から、ルナリスの胸の中には小さな棘が刺さっていた。どんな関係かも分からない、見知らぬ女性の影がちらつくことに。
そして今、その棘は、抜けるどころか更に奥深くまで潜り込んで、ルナリスを苦しめた。
前を歩くリヒトの背中を目で追う。彼はときおり振り返り、こちらを窺っている。その隣には、ぴったりと寄り添う女性がいた。
ベルと名乗った少女は、先程からリヒトの腕にすり寄り、「助けてくれてありがとう」と何度も礼を述べている。まるで、二人きりの世界に浸るように。
ルナリスの中に、じわりと熱がこみ上げる。
腹立たしい。
ベルの存在も、何も語ろうとしないリヒトも。
(なにが運命調律よ)
彼の身に起きた転移。
調律されるという世界の理。
弟だった理人と、この世界に生きるリヒト。
どこまでが嘘で、なにが真実なのか。ルナリスには、もう分からなかった。
確かなものなどひとつもない。
だが、ライラの姿はリヒトによく似ていた。記憶の改竄などでは誤魔化せないほどに。
澄んだ緑の瞳。無意識に見せる表情や仕草の数々。
ずっと、彼の面影を感じていた。見比べると、ふたりの姿は本当にそっくりで、血の繋がりをはっきりと感じさせた。
思い返せば、転移の話をしたときのリヒトの振る舞いも、どこか白々しかった。
あの時は深く問い詰めることはしなかったが、今となっては真実を隠すためにそれらしく演じていたのではないかと疑わずにはいられない。
そして、リヒトが王や兄の話を口にするたび、心からの親しみや信頼が込められているのをルナリスは感じ取っていた。偽りの家族とは思えないほどに。
全てが嘘だとは思いたくはない。
リヒトに、よりにもよって、家族のことで嘘を吐かれるなど。
(もし、ライラさんが本当にリヒトの母親だったら……)
母がいるということは、つまり、リヒトは元からこの世界の人間だったということだ。
では、前世の“母”は?
(リヒトは……私の、本当の弟ではないの?)
胸の奥が震える。
隠されていたことへの怒り、悲しみ。
それに混じって湧き出てしまう、安堵。
何よりも腹立たしいのは。
血の繋がりがないかもしれない――そんな疑問が、まるで願望だったかのように響いてしまう、自分自身の心だ。
「リヒト」
ルナリスは、ぽつりと呼びかける。
前世のことを口にするわけにはいかない。
代わりに彼へとぶつけたのは、別の問いかけだった。
「……どうして、私に黙っていたの?」
唐突な言葉に、リヒトは立ち止まる。
「……何のことを?」
「どうして、私に何も言わず、ここへ来たのよ!」
思わず声が上ずる。
リヒトは困ったように視線を彷徨わせながら、
「それは、魔物も出るし、危ないから……」
と答える。
「嘘よ」
一瞬で見抜いた。
そんな理由で、自分に何も告げず、ここまで来るはずがない。
ルナリスは俯いたまま拳を小さく握った。傍らで、サフィナがこちらを見上げた。大きな瞳が、不安そうに揺れている。
返答に詰まったリヒトを見かねて口を挟んできたのは、エルフの青年ティオ。
「まあまあ、そんなにカッカしないで。それより、二人はどういう関係なのさ?」
「弟よ!」
ルナリスが即座に答える。続柄を出したのは、彼への当てつけだった。
リヒトの眉がぴくりと動く。
だが、その言葉に反応したのは、周囲の仲間たちだった。ティオなどは、
「ああ……なるほど、姉弟“みたいな”関係なんだね」
と言って、勝手に納得した様子で頷いている。
リヒトは小さくため息をついた。その態度が妙に癪に触って、ルナリスがなおも詰め寄る。そして、互いに口を開きかけたその瞬間。
「あーあ。こわーいお姉さんに睨まれちゃったね、リヒト」
「ベル……ちょっと待っ――」
「ほら、もうすぐ湖が見えるよ。早く行こ!」
戸惑いの声を上げるリヒトを、彼女はにこやかに引き寄せる。
そのまま、ルナリスの視線からリヒトを引き離すように、先へ行ってしまった。
「……くっ」
「……殿下にも、きっと、なにかお考えがあるのでしょう」
取り残されたルナリスの肩に、そっと声がかけられる。ラセルだ。彼女は表情を変えぬまま、ルナリスを慰めるように言葉を続けた。
「ただ単に、ギルドの依頼で来ているだけかもしれませんし」
それは、あくまで可能性のひとつに過ぎないと分かっていても、ルナリスの胸にかかっていた重しをわずかに軽くした。
その言葉が、ではない。不器用ながらも心を寄せてくれるラセルの気遣いが、ただ染み渡る。
「もしかしたら、あたしの父に何か言われて、調べに来てるんじゃない?」
ライラがぽつりと呟いた。
リヒトの仲間たちには聞こえぬような、小さく抑えられた声だった。身分を隠している息子を、慮ってのことだろう。
ルナリスは、そこでようやく思い至る。
リヒトが以前、「グランメルには縁がある」と言っていたのは、このことだったのだ。
ライラは、グランメル領主であるカイルの娘。つまりリヒトは、カイルの実の孫ということになる。
リヒトは何ひとつ語ろうとはしない。出生のことも、本当の家族のことも。
水源へ向かうことを隠されるより、それが何よりも悲しかった。
前世とはいえ、温もりや絆を分かち合ったはずの相手が、自分の知らない真実を抱え、何も語ろうとしない。その沈黙が、どれほど寂しいことか。
それとも。
(私が、あの頃の絆に、こだわりすぎてるのかな……)
語らなかったのではなく。
語れなかったとしたら。
ずっと、弟だと思っていた。家族だと思っていた。
そんな自分に、真実を告げようとするだろうか。あの優しいリヒトが。
もしかすると――。
ぐらりと、足元が崩れるような気がする。
信じていたものが、揺らぐような気配が。
(彼を縛っていたのは、私だった……?)
ルナリスは、ふと足元に視線を落とした。唇が微かに震える。
「私、リヒトの……なんなんだろう」
言葉にした瞬間、その問いは、自分自身の内側を鋭くえぐる。
痛い。
どうしようもなく、痛かった。
傷が見えなくても、血を流さずとも。心の痛みとは、こんなにも耐え難いものなのだろうか。
「ルナリスちゃん……」
隣にいたライラが、そっと彼女の背に手を置いた。
「私が言うのもなんだけど、リヒトは意味もなく嘘をつく子じゃないわ」
「それは……」
そのことは、ルナリスだってよく知っている。
それこそ前世から。
ただ今は、突きつけられた真実に理解が追いつかない。
「だから、もう少しだけ待ってほしいの。大切な女性を悲しませたままなんて、あの子も望んでないだろうから」
ライラの声には、母が子へかけるような優しさが滲んでいた。
顔を上げると、リヒトによく似た緑の瞳が、まっすぐにルナリスを見つめていた。




