44話 崩れる足元①
森に差し込む光が、濃ゆい緑の葉をゆらゆらと照らしている。
ルナリスは、その木漏れ日の道をたどるように、静かに、しかし注意深く山道を登っていた。
気配を悟られてはならない。リヒトたちの足取りを見失わぬように距離を保ちつつ、こちらの存在が知られぬよう、息を潜めて進む。
道は崖のように険しいものではなく、木々の合間を縫うように、ゆるやかな上り坂が続いていた。
地図を手にしていたラセルが、ふと足を止める。
目を細め、道筋を確かめるように視線を走らせると、静かに呟いた。
「この先には、ノクティリカが使用している水源があります」
その言葉に、ルナリスは思わずラセルを見つめた。
ノクティリカの水源——それは、自国にとって生命線ともいえる場所。
ここが水源へ続く道であることなど、ルナリスは知らされていなかった。ラセルの困惑した様子を見るに、彼女にもきっと確信が持てなかったのだろう。リヒトが目指す場所について。
(どうしてリヒトは、私を置いて……)
疑問が胸に浮かぶ。
なぜ、自分を置いて、彼はこの場所へ向かったのだろう。
なにか知られたくないものが、見せたくないものがあるのだろうか。
「……この辺りは魔物も多いですから。ルナリス様に心配をかけさせまいとしたのでしょう。それに今は、炎蹄馬がどこにいるかも分かりませんし」
「そう、なのかしら……」
納得しようにも、飲み込めない自分がいる。
思考の渦に沈みかけたそのとき、前方の道で、リヒトたちが足を止めた。彼らの目の前には、そこだけ不自然に開けた空間があった。そこで何かを見つけたのだろう。
咄嗟に、ルナリスたちは木々の陰へと身を隠す。
リヒトは、しばらく言葉を失ったかのようにそこへ佇んでいた。やがて、周囲を警戒する様子を見せたあと、再び慎重な足取りで進み始める。
気配が遠ざかり、ルナリスたちも急いで後を追う。
「これは……!」
彼らが立ち止まっていた場所に辿り着き、一行は息を呑んだ。
そこだけが、ぽっかりと森から切り取られたかのように、木々が黒く焦げ、灰が地面を覆っていた。
すでに燻る熱もなく、辺りは静まり返っているが、これは明らかに火災が起こった跡だった。
「炎蹄馬の跡か」
ラセルが低く呟き、表情を険しくする。
呑気に旅を楽しんでいたリエラも、この時ばかりは流石に眉をひそめていた。
炎蹄馬。
炎をまとった魔獣。
その名が告げられるだけで、場の空気が一段と張り詰めたものになる。
ルナリスは、そっと首を振った。
「もう、このあたりにはいないと思うわ」
なんの根拠もなかったが、彼女はそれを感じ取っていた。
気配、音、におい――そんなものではなく、もっとか細い残響が、彼女の耳にだけ伝わってくるから。
すすけた土の匂いの中に、焦げた木の枝が転がっている。立ち止まりそのうちの一本へと、無意識に手を伸ばす。
けれど、彼女が拾い上げたのは木片でも石でもなかった。
灰に埋もれて、かろうじて形を保っていた、なにかの欠片。
まるで、宝石が薄く剥がれ落ちたような。それが何なのかはルナリスにもわからない。ただ、悲嘆のようなものが染み込んでいる気がした。
「それは……?」
リエラが問いかける。すぐ隣では、サフィナとラセルも不思議そうに顔を見合わせていた。
ルナリスは、拾った欠片をそっとハンカチに包んでから、小さく首を横に振った。
「なにかしら……。宝石の欠片みたいにも見えるけど」
「そんなもの、拾って大丈夫なんですか?」
「炎蹄馬がここにいたのなら、なにかの手がかりになるかも……」
手のひらの中に収まるほどの、小さな断片。
不安げな侍女を横目に、ルナリスは包み込んだハンカチを胸元にしまい込むと、再び前を向いて歩き出した。
道を進み始めて、ほどなくした時。
風に混じって、金属が打ち合う音が届いてきた。
剣戟の音。怒号。荒く、低い唸り。
ルナリスの心臓が跳ねた。
「リヒトたちだわ……!」
一行は駆け出した。木々をすり抜け、音のする方角へ急ぐ。
苔むした岩や木の根に足を取られながらも、懸命に走っていると、やがて戦場が見えた。
魔物の群れ。猪のような姿をした獣が、牙を剥いてリヒトたちに襲いかかっている。
冒険者たちは冷静だった。陣形を保ち、的確に対処している。
そのなかで、ひときわ小柄な少女の姿が目に留まった。
薄茶色の髪をふたつに結った、まだ年若いその背が、仲間の隙間を縫うように前線へ向かおうとして、
(危ない……!)
地面から突き出た石に足をもつらせ、体勢を崩してしまう。
リヒトが素早く駆け寄り、彼女の前に立ちはだかった。
しかし、魔物の突進が速すぎる。リヒトが武器を構えるよりも早く、牙が迫った。
——間に合わない!
ルナリスが思わず叫びかけた瞬間。その魔物の進路を裂くように、風が走った。
リエラだ。
彼女の剣が鋭く光る。
凶悪な牙をいなす動きは、流れる水のようにしなやかだった。魔物の体に斜めの線が刻まれ、悲鳴とともに崩れ落ちる。
それを合図にしたかのように、他の個体も次々と仲間たちの手によって倒されていった。
岩陰に身を潜めていた青年が、ほとんど無音のまま弓を引く。放たれた矢は、寸分の狂いもなく標的の喉元を射抜いた。
そのすぐそばでは、黒衣の女性が身を翻し、腰の内側から小さな刃を取り出す。
短刃が飛び、魔物の片目を貫いた。続けてもう一本。心臓へ正確に届いた刃が、最後の息の音さえ封じ込める。
あまりに迷いのない動きに、ルナリスは息を呑む。その手際、落ち着きよう。長年の修羅場をくぐり抜けてきた身のこなしだった。
最後に残った一頭に、リエラが剣を振り下ろす。断末魔が響き、ふつりと途絶えた。
視界を煙らせていた土埃が消えると、戦場にはようやく静けさが戻り始める。リエラは刃に付着した血をひと拭いすると、満足げに鞘へと収め振り向いた。
「まだまだ甘いわね、あんたは」
掛けられた声に、リヒトが目を見開く。信じられないといった表情で、彼の口から、ぽつりと呼び名が零れ落ちた。
「……母さん」
「母さん!?」
仲間たちのざわめきが一気に広がる。
それだけではない。
木々の陰に潜んでいた追跡者も、思わず声を上げていた。
リヒトがはっと顔を向ける。そのまま固まって動かない息子を横目に、リエラは余裕のある微笑みを浮かべたまま、肩をすくめた。
「ふふ。出てきてもいいんじゃない? そろそろ、隠れるのにも疲れたしね」
誘われるようにして、森から姿を現す人影があった。まるで悪戯が見つかった子供のように、おずおずと。
ルナリスだった。
気まずさと戸惑いを隠すように、唇に苦笑を浮かべて、彼女はこう言った。
「……来ちゃった」




