3話 常緑の国にて③
招かれた王宮は、木材と石が織りなす空間だった。
吹き抜けの天井は高く、太い梁が幾重にも組まれている。天窓から射し込む光が、柱に刻まれた精巧な彫刻を照らし出していた。壁を飾る織物は深い緑色で、古の戦いや伝承を描いているのだろうか、目を凝らせば複雑な模様が浮かび上がる。
金や宝石の装飾はほとんどない。けれど、そこには確かな気品があった。
研ぎ澄まされた重厚さと、長い年月を経た木材が醸し出す温もり。まるで今も木々が静かに呼吸し、時を刻んでいるかのようだった。
ルナリスが生まれ育ったノクティリカの建築とは、あまりにも違う様式美。けれどこの場所は、自然と共に生き、時に戦い血を流しながら築かれてきた――そうした人々の営みそのものが、空間に封じ込められているように感じられた。
そんな王宮の一室で、彼女は喜びと困惑の渦に飲み込まれていた。
混乱の原因となるのは、目の前に立つひとりの少年。
前世の弟と同じ姿で笑い、同じ声で話す、ウォルフワーズ国の第三王子だ。
リヒテンダルト・フォン・ウォルフワーズ。
名乗られたそれは、よく知った弟の名前に比べるといかにも高貴で、耳に馴染まない。
(だって、リトなのよ……)
前世の自分が愛した、大切な家族。
脳裏に浮かぶのは、古びた一軒家で慎ましくも幸せに暮らしていたあの日々。
洗濯機を泡だらけにしたこともあったし、テレビに夢中になってカレーを焦がしたこともあった。
夜中に二人でコンビニまで出かけて、近所の公園でアイスを分け合ったことも。
これまでぼんやりとしか思い出せなかった、けれど確かに存在した記憶たちが、一気に溢れ出てくる。
だが、ここで感情のままに動けば、取り返しがつかなくなることも理解していた。
我に返ったルナリスは、胸に湧き上がる懐かしさをぐっと噛み殺す。こらえきれず口元が綻んでしまったが、それも周囲には「月の宝玉」が浮かべる最上の微笑みとして映っただろう。
立会人からの紹介が済み、ルナリスは静かに顔を上げた。
視線の先、目の前の少年――リヒテンダルトもまた、どこか複雑そうな面持ちで立っている。
(ああ……やっぱり、あの子だ!)
彼は視線を泳がせながら、少しだけ唇を尖らせていた。それが照れたときに見せる癖だと、ルナリスは知っている。
胸がきゅうっと締め付けられる。しかしルナリスは、完璧な所作でそれを覆い隠した。
「改めまして、ルナリス・アイオライトと申します。この度は、両国の国交復活より八十年という記念の年に、貴国の皆さまとこのようなご縁を結べましたこと、心よりお祝い申し上げます。また、こうして光栄な機会をいただきましたこと、深く感謝しております」
その容姿にふさわしい、美しく澄んだ声を響かせながらも、ルナリスの脳裏には、つい先ほどの出来事がよみがえっていた。
「リト!」
迎賓市で助けられたあの時、ルナリスはそう彼の名を呼んだ。
前世で家族として暮らした少年の名前――本当の名は「理人」。けれど、自分だけが彼を「リト」と呼んでいた。
「姉さんだけだよ。俺をそんなふうに呼ぶの」
そう言って、弟は照れくさそうに笑っていたものだ。まだ少し幼さの残るあの笑顔を、ルナリスははっきりと思い出していた。
目の前の少年の姿が重なる。
市の喧噪は遠のいていた。周囲の人々が立ち止まり、荷馬車の御者があわてて声をかけてくるのも、耳には入ってこない。
ルナリスはただひたすら、少年を見つめていた。
戸惑いの色を湛えた緑の瞳が揺れている。
彼は驚いた表情をルナリスに向けたが、やがて「何か」に答えを導かれたように目を見開き、そして息を呑む。
「……姉さん?」
静かに、けれど僅かな震えを帯びて、その言葉は彼の口から漏れた。
(嗚呼――!)
歓喜のため息は、あるいは声に出ていたかもしれない。
この世界では呼ばれることのなかった「姉」という言葉に、ルナリスの胸は高鳴った。
それは、彼がまぎれもなく弟だったという、確かな証。
「リト……リト! また会えた! 本当に……夢じゃない?」
「姉さん――いや、ちょっと待って。一体、何がどうなって――」
往来であることも忘れて、ルナリスは少年に向けて手を伸ばす。彼もまた、その手を取ろうとするも、
「ルナリス様! ご無事ですか!?」
地を蹴る音を響かせながら駆け寄ってくる侍女や護衛役の姿を見て、さっと身を引いた。
「まずい……!」
彼は小さく舌打ちし、あたりを素早く見回すと、ルナリスにだけ聞こえるような声で囁いた。
「ルナリス、って呼ばれてた。……もしかして、ノクティリカの?」
「え、ええ。そうだけど――」
ルナリスが頷くと、彼は一瞬、息を呑んだ。だが、すぐに表情を引き締めると、
「それなら、きっとすぐに会える。話はその時に」
そう早口に告げて、群衆の中へと姿を消していった。
「すぐに会える、って……どういうこと?」
勢いに押されたルナリスは、人波を縫うように遠ざかっていくその背中をただ見送りながら、呆然と呟いた。




