37話 異変⑤
雨に濡れた服を脱ぎ、砦の一室でようやく一息ついたリヒトは、粗末な上着に袖を通した。
借りた服は、砦に備蓄されていた平民向けの簡素なものだ。色褪せた麻布のチュニックと、膝丈のズボン。装飾も紋章もないその姿は、まるでどこにでもいる田舎の少年のよう。
(王家に生まれていなかったら、どんな人生になってたんだろうな)
物語に出てくるような勇者に、憧れを抱いた時期もあった。王子としてではなく、ただの少年として夢を抱き、自由に生きる。
そんな日々があったのかもしれない。けれど現実は違う。彼は正真正銘王家の血を引き、背負うべきものがある。だからこそ、今日も剣を抜いた。
王族としての生き方に、辟易しているわけではない。
誇り高い家族に、自分を大切に思ってくれる家臣や民たち。守るべき、緑溢れる大地。自分には、贅沢すぎるほどのものだ。
時々、その重さに立ち止まりたくなることもあるけれど、家族や国への愛が、彼を支えてくれた。
そしてなにより、彼女が側にいる。王子として生を受けなければ、きっと「今」の彼女には出会えなかったはず――。
「似合ってる……なんて言ったら、怒られるかしら」
ふいに背後から声がして、リヒトは振り向いた。
部屋の入り口には、同じように着替えを済ませたルナリスが立っていた。顔には、悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。ようやく見れた自然な表情に、リヒトは安堵する。
彼女もまた、寝間着のまま逃げ出してきた身。現在は、やはり砦の備蓄に紛れていた草色のワンピースを身にまとっている。飾り気のない布地なのに、その美しさはなにひとつ変わらない。
「堅苦しい服装より、こういうほうが楽なんだけどな」
ふと見とれそうになり、リヒトは視線を逸らした。ルナリスは、まだ小さく笑っている。
ふたりはそのままラセルを伴って、砦の隊長室へと足を運んだ。
広げられた地図の上に、ランプの灯りが落ちている。部屋にはすでに、砦を率いる隊長・ガントが待っていた。
「遅くに申し訳ありません。ですが、早急に伝えておかねばならないことが」
時刻はすでに深夜を回っていた。本当なら、ルナリスを先に休ませたかったのだが、一緒に話を聞くと言って彼女は譲らなかった。
「まずは、あの魔獣についてです」
ガントの表情が険しくなる。
「火を纏う馬型の魔獣、それは炎蹄馬と見て間違いないでしょう。南部の伝承では、死んだ馬の魂を冥界へと運ぶ使いとされています」
地図の横には、古びた本が開かれている。そこには、蹄に炎を纏わせた馬の姿絵と、とある一説が書き添えられていた。
『騎馬の魂を運びし“焔送り”は、灼熱の地より現れる。旅人よ、その姿を見ることなかれ。不浄を焼かれ、魂の重みに膝を折るだろう』
ラセルの落ち着いた声が読み上げると、ガントは頷き、話を続けた。
「普段は人目につくことはまずありません。だが最近になって、グランメル領地での火災が増え、正体不明の蹄の跡が報告されていた……」
盗賊の仕業では、とラセルが問う。
「それも疑った。だが盗まれたものは何ひとつない。蹄の跡とともに残るのは、焼かれた作物や牧草ばかりだ。そして、その出没場所にも規則性がない」
「何かを狙っているわけではない、ということか?」
リヒトの眉が動く。無意識のうちに顎を触るのは、長年の癖だった。
「南方の魔獣、規則性のない動き。滅多に現れることのない……か。まるで、暴走しているみたいだ」
「暴走、ですか」
「ああ。人前に姿を現さないということは、警戒心が強かったり、臆病な性格ということも考えられる。それに伝承では、馬の魂を運ぶ、使者のような扱いをされているんだろう? そんな魔獣が、急に人の住む土地を荒らしだした。なにか、そうさせる原因があるとしか……」
「断定はできません。ただ、これまでの目撃証言と、蹄の跡の特徴、そして今夜の一件がすべて繋がるのなら……放っておくには、あまりに危険すぎる存在です」
揺れる炎が、古びた本に描かれた魔獣の姿を頼りなく照らしている。
部屋に沈黙が落ちる。焦げた草木のにおいが、闇の奥から漂ってくるような気がした。
「明日、現場の調査に向かいます。焼け跡を確認し、痕跡を追ってみましょう。殿下……ここは我々にお任せを」
「いや、俺も行くよ。見過ごすわけにはいかない」
即座にリヒトは応じた。だが、ガントは静かに首を振ると、
「今の状態で動かれるのは、得策ではございません。どうか、ルナリス様とともに、グランフィルドへ向かってください」
そう言って、頭を下げた。
たしかに、今の状況で炎蹄馬の捜索を行うのは無謀すぎる。旅を続けるにも、護衛の騎士団は半壊状態、物資はほとんどが焼けて、使い物にならない。ここは彼の言う通り、グランフィルドへ向かい体勢を立て直すべきなのだろう。
かの地はグランメル領の中心都市であり、領主の館も構えられている。新たに人を募るにしろ、物資を補充するにしろ、最適な場所ではあった。なにより、目的地には変わりない。
怪我をした兵たちの様子が気がかりだが――。
「ご安心を。怪我人はすでに療養所へと搬送しております。幸い、命にかかわるような重傷者はおりません。明日にでも、全員が治療を受けられますぞ」
リヒトの胸中を読むかのように言って、ガントは分厚い胸をどんと叩いた。
「……お前にはお見通しか」
「お優しい殿下のことですからな」
笑い合う男二人を横目に、ルナリスは地図を見つめた。この領地の中央に位置する大都市とは、一体どのような場所なのだろう。
「では、私はこのままルナリス様の護衛に」
「ありがとう、ラセル。心強いわ」
ルナリスはほっとしたように頷いている。
ガントはそんな彼女へ意味ありげに視線を移すと、リヒトに対し言った。
「今は、ライラ様も戻られていると聞いています。どうか、おふたりで顔を見せて差し上げてください」
その名に、リヒトの肩がぴくりと揺れた。
ルナリスが不思議そうに尋ねる。
「ライラ様……?」
「……っと。そろそろ疲れたな、今日は」
リヒトはわざとらしく伸びをして、話を切り上げる。
「じゃあ、俺たちは休ませてもらうよ」
ルナリスの背に手を添えて部屋の外へ促す様子は、あまりにも不自然だった。
眼とはふたりの姿を微笑ましく見送ると、誰ともなしに呟いた。
「ライラ様……あなたの宝は、ご立派に成長しておられますよ」




