36話 異変④
疲れた体を引きずるように、リヒトたちは砦へと辿り着いた。雨はなおも降り続け、濡れた衣と外套が肌に張りついて重い。
砦の中庭には避難していた者達の姿があり、ゼファーが集めてくれたのであろう馬たちが、不安げに鼻を鳴らしていた。
視線を巡らすと、ルナリスの姿はすぐに見つかった。砦の軒下で、じっと雨粒を見つめている。傍らには、サフィナとラセルの姿もある。
彼女の隣には、ゼファーが寄り添うように座っている。警戒心を漂わせつつも、彼の視線がふとこちらを向いた。まるで「遅い」と言いたげな、そんな目だった。
リヒトに気付いた彼女は、こちらが声をかけるよりも早く駆け寄ってくる。雨に濡れるのも構わず、美しい金の髪を頬に張り付けたまま。
「ルナ――」
呼びかけようとしたが、胸の奥がきゅっと痛む。
リヒトは咄嗟に手を伸ばしかけて、そして止めた。炎の煤と泥で、その手はひどく汚れていたから。
それでも、ルナリスは構わずその手を取った。白い手が、リヒトの手を包むように握る。
「……あなたは、自分の存在が、どれほど多くの人にとって大切か、わかっているの……?」
声には怒りが混ざっていた。
リヒトは少しだけ眉を寄せる。まさか、帰還を喜ばれる前に、そんなことを言われるとは思わなかったのだ。だから、
「分かってるよ」
つい、ぶっきらぼうに返してしまう。
わずかに口を尖らせるその姿は、王子というよりも年相応の少年だった。
リヒトにも分かってはいるのだ。自分がどんな身分であるかなど。
だが、彼はずっと、王子である前に「誰かを助けたい」と思って生きてきた。身を挺してでも。
それが、彼女をこんな風に泣かせるなんて――。
「分かってない!」
ルナリスが言い返す。滅多に怒らない彼女の、初めて見るような激情。
「こんな無茶して、周りの人を……わたしを、どれだけ心配させたと思ってるの……!」
その声音に、ふと記憶がよみがえる。
昔も、こんな風に怒られたことがあった。
あれは、まだ彼女が前世で生きていたとき。
ひとりで散歩に出かけたリヒトは、好奇心に駆られるまま街を歩いた事があった。複雑に絡んだ道を歩くうちに帰り道が分からなくなり、ようやく家に辿り着くころには真夜中になっていた。
あの日も雨が降りだして、けれども彼女は、自分の帰りをひたすら外で待ち続けていた。家に辿り着くなり、泣きそうな顔で「もう知らない!」と言われて、しょんぼりしながら後で謝った。
でも、あのときよりずっと、ルナリスは真剣で。青菫色の瞳が、リヒトの心の深いところを揺さぶってくる。
「ごめん……悲しませて」
その言葉に込めたのは、今日のことだけではない。
彼女を悩ませているすべてに対しての、ひそやかな謝罪だった。
ルナリスはしばらく無言で俯いた。リヒトの手を握るその手が、細かく震えていた。
ぽつん、と雫が落ちる。
空からではない。ルナリスの頬から涙がこぼれて、リヒトの手の甲を濡らしたのだ。
「……良かった、あなたが無事で」
降りしきる音に搔き消されそうなほどの呟き。彼女の吐息に混じるのは、心からの安堵だった。
冷たい雨が地を打つ中で、たしかなぬくもりだけが手のひらに残る。
ふたりはしばらく、何も言わず、ただそこに立ち尽くしていた。




