35話 異変③
轟音が空を裂き、地を焦がす。
リヒトは息を詰めて剣を構え直した。炎蹄馬の体が炎を帯びるたび、まともに視線すら保てない。視界の端では黒焦げになった木立が倒れ、その向こうでは兵たちが叫んでいる。
「殿下! お逃げ下さい!」
「ルナリス様を悲しませるおつもりですか!?」
アイゼンやマシューの声が響く。他の使節団員も逃がした後、応援に駆け付けたのだろう。
炎は衰えることなく勢いを増し、退路をも塞いでいく。
リヒト自身、理解はしているのだ。
この身は、そう簡単に投げ出していいものではないと。しかし、今もなお戦っている兵や怪我人を、放っておくこともできない。
「分かっている!でも……!」
その刹那、炎の壁を跳ね越えて、ひとつの影が飛び込んできた。
灰を巻き上げ、灼熱の奔流を裂いて現れたのは、黒狼のゼファー。
彼の美しい毛並みの先端はすでに焦げていた。口を開けて喘ぐ姿は、火を司る魔物との相性の悪さを物語っている。
「ゼファー! 無事だったか!」
リヒトは狼の傍へ寄ると、一息に告げた。
「頼みがある。散った馬たちを集めて、ルナリスのところへ連れていってくれ。できるな?」
ゼファーは、一度リヒトを見上げた。金色の瞳に宿るのは、狼の気高い輝き。
こんな場面でも、ゼファーは悠然として迷いひとつ見せない。まるで自身がなすべきことを、既に悟っているかのように。
それが、リヒトを勇気づけた。
「さあ、行け!」
狼は咆哮を上げながら、一陣の風のように駆け出した。火の粉がぶわっと舞い上がる。
その後ろ姿に励まされるように、リヒトは正面を睨んだ。
炎蹄馬が、再びこちらを見据える。
「お前の相手は俺だ……!」
刃が灼熱の空気を裂いた。けれども、何も届かない。すべてが熱に揺らぐ幻のようで、踏み込めば焼かれ、退けば喰われる。
地面に蹄が叩きつけられるたび、火が跳ねた。
熱い。息が吸えない。剣の柄が汗で滑り落ちそうになる。
(怯むな……踏み止まれ!)
後退しかける足を叱咤して、膝に力を込めた。
勝てる相手ではない。だが、いま逃げるわけにもいかない。
この魔物を野放しにすれば、被害は更に広がってしまう。せめて応援が来るまでは、ここで食い止めなければ。
リヒトは構えを変えた。以前、ヴァルクに対したときのような、突撃の姿勢。
そして、一息に踏み込もうとした瞬間、
「……水?」
ぽつりと、冷たいものが頬を濡らす。
空から降ってきたのは、雨だった。
ひと粒、ふた粒――やがて、地に無数の音を刻む、水の鼓動。
熱で濁っていた空気が冷やされてゆく。
立ち込める煙が風に流れ、燃え広がっていた草が、じりじりと湿っていく。
魔物の体を覆っていた火も、わずかに勢いを失ったように見えた。
リヒトが息を呑むと同時に、炎蹄馬は動きを止めた。
その瞳が空を仰ぎ、ぶるっと鼻を鳴らす。まるで、ここまでだ、とでも言うように。
そして炎蹄馬は火を散らして跳ね、雨の帳の向こうへと姿を消した。
「助かった……のか」
地面には、焼け焦げた蹄の痕と、くすぶる匂いだけが残っていた。
わずかな静寂の後、兵たちの雄たけびが一斉に響く。
リヒトは天を仰いだ。
恵みの雨とは、よく言ったものだ。それどころか、この雨は、命を救う雫となった。
息を整えていると、遠くから地を駆ける音が聞こえた。
騎馬の群れ。グランメルの紋章を掲げた、救援の兵士たち。
「……来てくれたのか」
リヒトは目を細めると、ほっと息を吐いた。
雨脚はしだいに強まり、焦げ跡に残っていた火の気配を洗い流していく。
黒く燻った地面、焼け落ちた荷車、そして雨に打たれる兵たちの鎧。
かすかに漂う煙の中、グランメル兵たちは戦場に散らばり、哨戒と負傷者の手当てに追われていた。護衛の騎士たちも、動ける者は手伝いに回る。
幸いなことに、多くの怪我人は出たが死者はいなかった。あの炎の苛烈さを考えれば、まさに奇跡としか言いようがない。
ノクティリカの使節団も、アイゼンやマシューらの迅速な誘導によって難を逃れていた。
だが、物資のほとんどは焼け落ち、騎士団の布陣も半壊状態。しばらくは療養と補給が必要だろう。
鉄蹄の音を響かせて、リヒトの前に騎馬が近づいてきた。
グランメル騎馬隊の隊長、ガントである。
「リヒテンダルト様! ご無事でしたか!」
「ガント! 久しぶりだな!」
リヒトは駆け寄る男の肩に手を置いた。
互いに片手で肩を打ち合わせるそれは、グランメル騎馬隊が健闘を称え合うときの挨拶だ。
「ようございました。あなたが戦場に残っておられると聞いて、飛んでまいりましたぞ!」
息を整えつつ、間に合わなかった非礼を詫びるガントに、リヒトは肩をすくめて笑った。
「いや、助かったよ。……死者はいなかったが、被害は大きい。付近の詰め所を、しばらく療養所として貸してくれないか」
「もちろんでございます!」
頼もしい返事がすぐに返る。ガントは軍靴を踏み鳴らし、真摯に応じた。
「ところでガント」
リヒトは顔を上げた。
「砦に、使節団の者たちが避難してるはずだけど……その中に、女性はいたか? 護衛の騎士と一緒にいる、金色の髪をした――」
「ルナリス様ですかな? ご無事でございますよ」
ガントは一瞬目を見開き、すぐに頷いた。
その上で、何かを思い出したように「ああ!」と膝を打つ。
「もしや、あのご令嬢が……此度、殿下がご婚約されたお方で?」
リヒトはわずかに視線を逸らし、気まずそうに頷く。
「……まぁ、そうなんだけど」
ガントは厳つい顔に豪快な笑みを浮かべた。
「なるほど、やはりあの方が! 隣国のご令嬢と聞いて、てっきり馬にも乗れぬものかと――いや、失礼。ですが、あの方は肝が据わっておられる。このような状況でも、気丈に振舞っておられた」
どうやら、かなり好印象だったようだ。
グランメルの男たちは、容姿や血筋よりも「馬に乗れる女」を好む気質がある。気丈さや胆力を重んじる風土なのだ。
そんなガントの様子に、リヒトはほっと胸を撫でおろす。なにしろ、グランメル領の者からは、此度の婚約についてあまりいい顔をされなかった。だが、特にそのきらいがあるガントが、彼女に対し悪い印象を持たなかったのなら、他の者たちも受け入れてくれるだろう。
「今日のところは、砦にてお休みを。後の処理は、明日以降に回しましょう」
「そうだな。……雨が降ったのは、せめてもの幸いだった」
リヒトはしばし空を仰ぎ、そして息をつく。
「しかし、まさかこの地で、炎蹄馬と出くわすとは思わなかった」
「その件についても、いくつか報告がございます。……砦にて、詳しく」
ガントの声には、どこか含みがあった。
「婚約者殿も、殿下のご無事をお待ちですぞ」
雨はまだ止まない。
土の香りに包まれた空気は、ようやく戦火の焦げ臭さを薄めていた。
リヒトは濡れた前髪を払うと、砦への道を見据えた。




