33話 異変①
※「青嵐」の始月=6月
それからというもの、ルナリスの態度は、どこかよそよそしくなってしまった。
話しかけても返事は短く、向けられる笑みもぎこちない。
視線を感じて振り返れば、ふっと目を逸らされる。けれど完全に拒絶しているわけでもなく、微妙な距離のまま、彼女は時折こちらを見つめていた。
まるで、心の奥で何かを確かめるように。
彼女の中で、自分の存在が変わり始めていることを、リヒトは察していた。
それが果たして二人の未来にどう影響するのか。
ルナリスにとって、リヒトは前世での弟だ。
あの頃とは違う姿で、違う立場に生きている今も、魂の深層には過去の記憶が刻まれている。
生まれ変わりとはいえ、近親であったということが、彼女を縛りつけているのかもしれない。
いまやルナリスという名で生きていても、彼女と理沙は繋がっているのだから。
けれど。
リヒトは、真実をまだ伝えていない。
自分は、理沙の実の弟ではない。
ふたりに血の繋がりなど、一切ないのだ。
知ってほしいと願う反面、それを告げることが、かえって彼女を苦しめるのではないかという不安もある。
母を亡くし、身を寄せるように暮らしてきた姉弟。たったひとりの家族が、実は紛い物だったなどと知れば、彼女はきっと悲しむ。
どう伝えればいいのか——その答えを、リヒトはまだ見つけられずにいた。
微妙な距離を保ったまま、いくつもの夜が過ぎた。
季節は、「青嵐」の始月。芽吹きの春が過ぎ、空模様の読みづらい季節がやってきていた。湿り気を帯びた風が草原を這い、濃ゆい緑の香りと土の匂いが鼻先をくすぐる。
たとえ整備された街道とはいえ、連日の雨に濡れた地面は重く、進軍は遅々としていた。
この日も、灰色に染まった空の下、使節団の列は無言のまま静かに進んでいく。
その先頭で、リヒトは黙々と馬を駆っていた。
ひとたび手綱を握れば、考え事に沈む隙などないはずなのに、それでも思考の波は止まらない。
(……また、目を逸らされた)
振り返った視線の先には、けして冷たいわけではないのに、どこかよそよそしい笑みがあった。
その変化に対し「自分を意識してくれている」と自惚れることができたなら、どれほど楽だろう。
生憎、今の自分には、そんな心の余裕などないのだが。
(あからさまに避けられているわけじゃないけど……)
どうしたものかと、リヒトは重い溜め息をついた。
理沙ではなく、ルナリスとして向き合おうとしているのは分かる。だが、選び取った距離の取り方が、かえって心に痛かった。
そんな中、ふいに黒い影が草むらを走り抜けてきた。
「ゼファー、どうした?」
駆け寄ってきたのは、大きな体躯を持つ黒い狼。
リヒトは馬から下りて、ゼファーの首元にそっと手を置いた。荒ぶる気配をなだめながら、金の瞳と視線を合わせる。
ゼファーは目で語る。嗅ぎ取った気配、風の匂い、仲間たちの動揺。そのすべてをリヒトへ伝えるように。
「……そうか。他の狼たちも、なにかを感じて気が立ってるんだな」
リヒトは小さく頷いた。
ここ最近、明らかに魔物の動きがおかしい。以前はほとんど起こらなかった襲撃が、日を追うごとに頻発している。
王都近辺では、警備の網が張り巡らされている分、滅多に魔物の影は見なかった。
だが今は違う。街道沿いすら、安全とは言い切れなくなっていた。
狼たちは、それを直感として嗅ぎ取ったのだろう。風の中に、まだ見ぬ脅威の気配が混じっているのかもしれない。
(ゼファーたちの反応が正しければ、すぐに何かが起こる……)
これが杞憂で済めばいいのだが。
そう願いながらも、リヒトの胸を覆う影は、次第に濃くなっていくばかりだった。
その夜。
使節団はグランメル領に入り、街道脇の一角に野営地を構えていた。
月のない、不気味なほどに静かな夜空。
地には焚き火の灯りがいくつも揺れ、兵たちは交代で見張りにつき、旅人の休息を守っている。
そんな中、馬たちだけが落ち着きを失っていた。
群れの端に繋がれた栗毛の牝馬が、ぴくりと耳を動かす。鼻を鳴らし、草を蹴るようにして何度も足踏みした。隣の馬も、それにつられるように首を振る。時折、夜の闇に向かって鼻を伸ばすような仕草も見せた。
人の目には何も見えず、耳には何も聞こえない。ただ、草原を撫でる風が、やけに重たく感じられる。
見張りの騎士のひとりが、手綱のきしみに眉をひそめた。
「どうしたお前たち。今夜はずいぶん騒がしいな」
そう声を掛けた時だった。
ぽうっ──と。
暗闇に、不自然な赤い光が灯った。
遠くで火でも上がったか。そう思ったのも束の間、次の瞬間には警鐘が鳴り響く。
「警戒っ! 火の手だ!」
護衛の叫びが夜を裂く。
それは、移り火などではなかった。
燃え広がるのは、禍々しくも黒ずんだ、赤黒い炎。
野営地を囲むように地を這い、意思を持つかのように兵の間を縫って伸びていく。
一方その頃、ルナリスは幕屋の寝台の上にいた。
最近は眠りが浅く、少しの物音でもすぐ目を覚ます。
今回も、外のざわめきに目を開けた。そしてすぐに警戒を強める。ざわめきが、少しの物音なんてものではなかったからだ。
「……火の手?」
騎士たちの叫びや馬の嘶きが、耳を澄まさずとも伝わってくる。
「サフィナ! サフィナ、起きて!」
すぐ近くで寝息を立てていた侍女の肩を、ルナリスは軽く揺すった。
サフィナは寝ぼけ眼をこすりながら、「まだ朝じゃありませんよぅ……」と寝言じみたことを呟いている。
状況を把握する前に、帳の向こうからリヒトの声が飛び込んできた。
「ルナリス! 今すぐに逃げるんだ!」
切迫した声。聞き慣れた優しさは消え、命令にも似た緊張が滲んでいた。
慌てて羽織を掴み、サフィナを引き連れて外へと飛び出す。
「熱い……!」
顔に熱気がぶつかり、反射的に口元を覆った。
周囲には炎、炎、炎。
野営地は、地獄の釜の蓋が開いたかのようだった。
(なに?……なにか、聞こえる)
おぞましく凶悪な気配を孕む、赤黒い炎。
騎士たちの怒号、戦いの音、誰かの悲鳴。
だがルナリスの耳には、それらとは異なる響きが届いていた。
音でも声でもない、熱と煙に混じった、苦悶と嘆きの旋律。
──彼女にしか聞こえない、歌のような響き。
リヒトが駆け寄ってくる。意識が、ふっと引き戻された。
「早く馬に!」
その腕に導かれ、ルナリスは鞍の上へと抱き上げられる。
サフィナもラセルの手で別の馬へ。
「アイゼンたちが隙間を作ってくれてる。あそこから出ろ」
リヒトが指し示したのは、戦場とは真反対の方向。そこでは騎士たちが懸命に、水や土を使って炎を抑えていた。その先に、かろうじて抜け道が生まれている。
ルナリスは頷こうとしたが、ふと疑問が漏れる。
「……リヒトは?」
「俺は、ここで奴を食い止める」
あまりにも当然のように返された言葉に、ルナリスは首を振った。
「だめっ、行かないで!」
焔の轟きの中で、二人の視線が交錯する。
リヒトの瞳が、わずかに揺れた。
手綱をルナリスの手に握らせながら、リヒトは一瞬だけ、焔の向こうを睨むように見つめた。
その目に、微かな緊張が走った気がして、ルナリスは息を呑む。
振り返った彼はいつものように笑ってみせると、
「しっかり手綱を握っていて」
まるで何もなかったかのようにそう言い、馬の尻を強く叩いた。
「っ……!」
馬が嘶き、後肢で立ち上がる。思わずルナリスは鞍にしがみついた。
地を蹴った蹄が、野営地を――彼を置いて走り出す。
「リヒト!」
叫びは、熱気と風にさらわれた。
ルナリスを乗せた馬が、裂け目のような隙間を駆け抜ける。同じように、サフィナを乗せたラセルの馬も続く。
他にも、馬車を引いていた馬たちが逃げ出していた。御者が制御しているものもあれば、散り散りになって逃げだす馬もいた。
激しく揺れる背の上で、ルナリスは振り返る。
野営地が、見る見るうちに小さくなっていく。
リヒトの姿は、もう見えない。けれどそこに、魔の気配があった。
炎をまとった蹄。闇の中に光る双眸。
古い伝承に語られる魔物――炎蹄馬。
不吉な炎に包まれた獣が、黒煙の中に降り立っていた。




