32話 動きはじめる心④
天幕を出たリヒトは、吹く風に身を晒しながら、己の胸に重くのしかかる言葉を反芻していた。
なぜ、あんな問いを口にしてしまったのか。
まだ自分を、弟だと思っているか、なんて。
わかっていたはずだ。ルナリスが、いまも前世とこの世界の狭間で揺れていることくらい。
彼女の言葉、仕草、沈黙、ふとした視線。そのすべてに迷いがあったから。
それなのに、まるで答えを急かすように問いかけてしまった。
「……馬鹿だな、俺」
低く吐き出された自嘲が、人知れず溶ける。
彼女がふと頬を赤らめたとき。
無邪気に笑いかけてきたとき。
他の男と話している姿を目にしたとき。
胸の奥がざわめくのを、彼は何度も感じていた。つられて嬉しくなったり、苦しくなったり、なぜか視線を逸らしてしまったり。
その感情の名は、もう知っている。
けれど、それを口にすれば、過去が揺らぐ。
家族として共に過ごした時間に、違う色を塗ってしまうことになる。
すでにもう、姉と女性の狭間で揺れていたあの頃より、感情は鮮やかになっていた。
理沙は、温かな光だった。
対して今、リヒトの胸を焼いているのは――それよりも、もっと熱い。
この距離のままでは、いられない。
しかし、彼女を本当に伴侶として迎えたいと思うなら、明かさなければならない真実がある。
告げれば、きっとすべてが変わる。彼女の意思などおかまいなしに。
リヒトは、胸元を押さえながら、静かに天を仰いだ。抜けるような青空は、彼の心の曇りなど一切映すことなく晴れやかだった。
(怖いんだ、きっと……)
告げることで、彼女の「いま」を壊してしまうのが。
曖昧で心地よい泥濘の中にいるような関係が、崩れてしまうのが。
いつかは明かさなければいけない時が来るだろう。
俺は、理沙の弟じゃない――と。
彼女は、いったいどんな表情を向けるのだろう。
その瞬間を思うだけで、心の奥が震える。
きっと、自分はまだ……踏み出せない。




