31話 動きはじめる心③
視界に彼の姿が映るたび、胸の奥がきゅうと締め付けられる。
声を聞けば、鼓膜に触れたその響きが、じんわりと体を熱くしていく。
おかしいな、とルナリスは思った。こんなはずじゃなかったのに。
「ただいま、ルナリス」
天幕の帳が揺れて、リヒトが顔を覗かせた。
懐かしいはずの笑みに、思わず息が詰まる。
「おかえり、なさい」
自然に笑い返したつもりでも、口元がぎこちなく歪むのを感じた。
視線を合わせることができなくて、髪を掻きあげるふりをして、ふいと顔を背ける。
「……随分早く戻ったのね。もう少し先かと思ってた」
「離れ過ぎると、追いつくのが大変だから」
「そう……」
前世では、弟だったはずの少年。
けれど、いま目の前にいるのは、思い出に閉じ込められた“弟”ではない。
彼の声も瞳も、ちょっとした仕草も。すべてが、「男性」として目に映ってしまう。
戸惑いが、胸に波紋を描いていた。
「なにか心配事? ずっと浮かない顔をしてたって聞いたけど……」
リヒトの声は、昔と変わらず優しい。あの頃より少しだけ低く、大人びているけれど。
ルナリスは首を横に振る。言葉にすれば、なにかが揺らいでしまいそうで。
だから、
「大丈夫。気にしないで」
そんなことしか言えなかった。
「無理はしないで。困ったことがあったら、ちゃんと頼ってよ。そのために俺がついてるんだから」
向けられたのは、穏やかな瞳。
前世でも、よくそんな風に言ってくれていた。懐かしい記憶が胸をかすめる。
姉弟として一緒にいた頃は、もっと素直に自分の弱さをさらけ出せたのに。
「今日は……暑いわね。そろそろ、季節も夏になるし」
深みにはまる思考から抜け出すように、話題を逸らす。顔に、わざとらしい笑みを張り付けたまま。
「この間まで涼しかったのにね。旅をしてると、時間があっという間に感じるよ」
リヒトは軽く笑いながら胸元に手をやり、衣の隙間から風を送り込んだ。
その拍子に、胸元が大きく開いた。
鎖骨の下、健康的な肌の奥に、うっすらと筋の浮いた胸板がのぞく。
ルナリスは慌てて視線を逸らした。身体に熱が宿り、過去の夜がふと蘇る。
前世の死を思い出した晩のこと。
彼の胸に顔を埋めて、嗚咽をもらしたときのこと。
触れたぬくもりが、皮膚の奥でまだ消えずにいる。
ただ、気が動転していて……自身の過去と今を受け入れたばかりで……どうしようもなく寂しくて――。
言い訳のように、自分に言い聞かせる。
今だったら、もうあんな風に身を寄せたりはできない。あのときの自分は、どうかしていたのだ。
「……あのさ」
不意にかけられた声に、思考が中断された。
「まだ、弟だって思ってる? 俺のこと……」
思わぬ問いかけに、息が止まる。
心臓がひときわ強く脈打った。
「それは……」
声が続かない。どうしても、うまく言葉にできなかった。
弟だった。
でも、今のリヒトは、もう弟じゃない。
頭では分かっているのに、答えられない。
答えるのが、こわい。
踏み込めば、きっともう、引き返せない。
「ごめん。まだ……ちゃんと、自分の気持ちが整理できないの」
ルナリスはそう言って、少しだけ顔を伏せる。
絞り出された声は、わずかに震えていた。
自分でも、情けないと思う。でも、これが今の精一杯だった。
リヒトは、少しだけ目を見開いたあと、ふっと優しく微笑んだ。
責めるでも、呆れるでもない。ただ、いつもの、穏やかな微笑みで。
「……うん。正直に言ってくれて、ありがとう」
こちらを気遣うような返事に、切なさが込み上げてくる。
どうしてこのひとは、こんなにも優しくて、まっすぐなんだろう。
同時に、こうも思う。
リヒトが自分に優しくしてくれるのは、理沙の魂を受け継いだからなのだろうか。
あるいは、婚約者――ひとりの女性として?
もし姉に対する情だったのなら。そう考えると、心のどこかがチクリと痛んだ。
けれど、彼が自分を女性として見てくれているのだとしたら。
嬉しいと、素直に思ってしまうのだろう。顔を背けたくなるような、背徳感を抱きつつも。
怖くて、確かめられない。
聞いてしまえば、崩れてしまう。なにかが。どこかが。
リヒトは、再び黙り込んだルナリスを見つめると、なにかを言いかけて――やめた。開きかけた唇を再び閉じて、緑の瞳は、少し困ったかのように揺れている。
そしてそのまま、そっと天幕の入り口へ向かい、何も言わずに外へと出ていった。
静かに、風が吹き込む。
彼の気配が去ってしまっても、ルナリスの心はなお、波打つ水面のように静まらなかった。




