30話 動きはじめる心②
夕食の卓に着いてからも、ルナリスはどこか上の空だった。
スープをすくう手はぎこちなく、塩加減もわからぬまま口に運んでいるようで、ほとんど味わってはいない。パンをちぎっても、何かを考え込むように手が止まり、目線も彷徨っていた。
「……なあ、あれ、平気か?」
それを遠目から見ていたマシューが、首をかしげながら、向かいに座るラセルへと小声で囁く。
アイゼンも同じ方向に目を向け、「ずっとぼんやりしてるな。体調が悪いのか?」と眉をひそめた。
だが、一部始終を見ていたラセルは苦笑しつつ、
「……ただの惚気だよ。気にするな」
「惚気?」
「そのうち、お前たちも見れるさ。照れているルナリス様は、いっそう可愛らしいぞ」
二人が目を見合わせ、「そりゃあ楽しみだ」と笑ったその頃。
ルナリスの傍では、侍女のサフィナがにこやかに言った。
「ルナリス様。頬へのキスひとつで骨抜きになっているようでは、ご結婚されてからが大変ですよ?」
「……え?」と、ルナリスが顔を上げた。
スプーンが手から滑り落ちそうになり、慌てて持ち直す。
べつに、骨抜きになっていたわけではないのだが、訂正しようにも咄嗟に言葉が出ない。
「おふたりはご夫婦になられるのですからね」
屈託のない声で、サフィナは祝福するように微笑んでいる。その声をどこか遠くに聞きながら、ルナリスはひそかに言葉を繰り返す。
(夫婦……?)
リヒトと、夫婦になる。
弟だった、あの子と?
その事実に、こんなにも戸惑っているのは、きっと今まで「婚約者」という肩書きを、どこか他人事のように受け止めていたから。
夫婦になるということは。
ただ一緒に食卓を囲み、寝所を共にする――それだけではない。
夜の営み。
その言葉を思い浮かべた瞬間、ルナリスはふいに身体の奥が熱くなるのを感じた。
淑女のたしなみの一環として、それらしい知識はある。けれど、それはあくまでふんわりとした教育に過ぎず……。
むしろ、前世で耳にした断片的な会話や、こっそり読んだ物語の方が、よほど生々しくて具体的だった。
(……だ、だって、そんな……!)
サフィナが隣で、「お二人のお子さまは、どちらに似ても愛らしいでしょうね……」などと楽しげに未来の家族像を語っているのも、今のルナリスにはまるで耳に入らない。
(そういうことを、するの……? あの子と? 弟だった、リヒトと……?)
頭の中で、次々と疑問符が浮き上がる。
突如ゼンマイが切れた人形のように動かなくなった主へ、侍女が声をかける。すぐ目の前で何度手を振られても、ルナリスはパンを握ったまま固まっていた。
結局その夜は、寝台の上で目を閉じても、浮かんでくるのはリヒトの姿ばかり。眠ることなど、とてもできなかった。
その夜を境に、ルナリスはすっかり思い詰めてしまった。
気がかりなのは、夫婦生活のことだけではない。
リヒトの身に起こった、「転移」という現象についても、ルナリスは頭を悩ませていた。
自分たちの境遇は、似ているようでいて、しかしまったく異なっている。
前世とは別の人間として生まれ変わったルナリスに対し、リヒトは転移という形でこの世界にやって来た存在だ。
多少の成長は見られるとはいえ、彼の姿や年齢を考えれば、転移を経験したのはそれほど遠い過去ではないはずだった。
それにもかかわらず、ウォルフワーズ国の第三王子、リヒテンダルト・フォン・ウォルフワーズの名は、何年も前からノクティリカの社交界に知られている。
ということは――今、王子として振る舞っているリヒトとは別に、本来の第三王子が存在しているはずなのだ。
それならば、その「本物」は、一体どこにいるのか。
王や兄妹たちの様子を見る限り、今のリヒトは、何の違和感もなく家族として受け入れられているように見える。
影武者として振る舞っているのか。
あるいは、本物の第三王子に何かが起き、リヒトが承知の上でその役目を引き継いでいるのか。
以前、「転移」について語ってくれたときの、どこか話をはぐらかすような言い方。
あのとき覚えた小さな違和感が、今になって、再び胸の奥に湧き上がってくる。
そして、もうひとつ。
いつの日か、リヒトは元の世界へ帰ってしまうのではないだろうか。
自分の隣に立つ彼が、ある日突然、知らぬ間に、別の人間に挿げ変わっている。
そんな時が訪れたなら、果たして自分は、それを受け入れられるのだろうか。
ルナリスは、漠然とした不安を抱えたまま、答えの出ない問いを何度も反芻していた。
朝も夜も、どこか上の空。目を伏せては溜息ばかりをこぼすルナリスに、付き添う者たちの間にも、次第に困惑と心配の色が広がっていく。
見かねたラセルが、気分転換にと乗馬をさせることもあった。疾走する風は一時だけ彼女の頬を紅潮させ、笑みを引き出したものの、その表情もすぐに曇る。終わる頃には、またあの悩ましげな溜息が漏れていた。
「重症だな、こりゃ」と呆れたようにアイゼンが言えば、
「まさかルナリス様がここまで奥手だとは……」と、ラセルが苦笑まじりに答える。
その言葉に、侍女のサフィナはふと黙り込んだ。
(ルナリス様……やはり、あのときのことが……)
過去を思い出すも、主に関することをおいそれと口には出せない。ましてや、彼女が傷付いた過去など。
「しばらく……見守りましょう」
サフィナの穏やかな提案に、皆は深く問わず、静かに頷いた。
そんなある日。
予定よりも早く、リヒトが使節団へと戻ってきた。
「報告と書簡の引き渡しだけを済ませて、馬をすっ飛ばしてきた」という付き添いの護衛の話に、一同は目を見合わせる。通常ならば合流にはあと数日はかかるはずだった。
そうして現れたリヒトは、再会の挨拶もそこそこに、真っ先に尋ねた。
「ルナリスは元気にしてる? 姿が見えないようだけど……」
その言葉に、サフィナは思わず顔をほころばせる。
(この方なら、きっとルナリス様を幸せにしてくれる)
彼女の中に灯る希望のようなものが、そっとリヒトに託された。
「お元気ではありますが……少し、悩んでいらっしゃるご様子です」
「悩んでいる? どうして?」
「それが、私どもには――。ぜひ、殿下のお顔を見せて差し上げてください」
「……なるほど。分かった」
そう短く答えたリヒトは、休息もそこそこに歩き出した。
迷いの影が差すその場所へ、まっすぐに。




