29話 動きはじめる心①
一行はベルク族の村を後にし、かつて通った道を引き返していた。
目指すは西――牧草地帯の広がるグランメル領。ルナリスたちの次なる目的地である。
グランメル家は、ウォルフワーズ西部に広大な土地を持ち、牛や羊といった家畜の他に、軍用馬の繁殖や育成に長けた家系だ。騎士団で活躍する馬の多くも、ここで生まれたものだと聞く。
今回の視察の一端には、ノクティリカへ運ばれる水の経路調査に関する下見も含まれていた。
これまでノクティリカでは、グランメル領の土地から取水された水を魔道上水道によって運んでいた。水質汚染の原因を探るうえで、水源の調査は必要となる。専門家を伴っての詳しい調査は後に予定されているが、ルナリスは自身の目でも確かめたいと考えていた。
グランメル領へ向かう途中、王都近郊を通るため、そこで本隊から離れる者もいた。
同行していたノクティリカの貴族たちだ。視察に残る者もわずかにいたが、多くは書簡とともにノクティリカへと帰る。そしておそらくは、誰もがこぞって言うのだろう。
「自分こそがベルク族との橋渡し役を務めたのだ」と。
護衛の騎士たちも数人を残して交代となる。女性騎士のラセルや、ルナリスに初めて獲物の解体を見せたマシューという名の騎士は残留するようで、とりわけ彼については「ルナリス様の献立を預かるのは俺だ」と譲らなかった。以前彼女がかけた言葉に、よほど感銘を受けたのだろう。そして、女装姿を披露した金髪の騎士、アイゼンの姿もあった。
見慣れた顔にほっとしたのも束の間、
「俺も、数日だけ抜けるから」
そう言ってルナリスの前に現れたのが、リヒトだ。
彼はベルク族の村での件を直接王に報告するため、一時的に視察団を抜けることとなった。
「報告をまとめて渡してくるよ。それに……ベルク族からは陛下宛にも書簡を預かっているから」
「そうね。きっと、お待ちになっておられるわ。私も、王都で少し休息をと勧められけれど……」
「分かってる。今は少しでも先に進みたいもんな」
「うん……気を付けてね、リヒト」
ルナリスがそう返すと、リヒトはわずかに眉を上げる。けれど、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、馬からするりと降りると、妙に神妙な面持ちで近づいてくる。
なに?――と尋ねる暇もなく、彼はそっとルナリスの頬に唇を寄せた。
軽く、触れるだけの、ほんの一瞬のキス。
離れた後も、確かな熱が残る。
「っ……なっ!?」
「おまじない。悪い虫が付かないように」
「ばかっ……!」
思わず振り上げられたルナリスの腕をするりと躱し、リヒトは馬に飛び乗る。そして軽く手を上げると、風のようにその場から駆け出して行った。
さて、突然そんなことをされたものだから、ルナリスはしばらく呆然と馬車に籠っていた。
交代の騎士隊が到着して挨拶をする時も、野営のための天幕が張られた時も、心ここにあらずといった様子で、ぼうっと遠くを見つめていた。
ベルク族の村では、「おまじない」と称してこちらから仕掛けたものの、される側となるのは心の準備ができていない。そもそもあの時だって、恥じらいを精一杯堪えていたのだ。
それも、額よりもずっと唇に近い、頬へのキス。思い出すだけで、顔から火が噴出しそうだった。
あの、どことなく慣れているリヒトの雰囲気にも、もやもやする。
(なんなの、あんなキザなことして……!)
年下の彼に翻弄されることが、少しだけ悔しい。なにより、彼をずっと「弟」だと思っていた。自分のことは、既に前世とは別人であると受け入れているけれど。
しかしリヒトに対しては、まだそうではない。なにせ彼は本当に前世での弟だったのだから。
だから、今の状況に気持ちが追いつかない。
頬に残る柔らかな感触を思い出して、ふわふわとした気持ちにさせる。同時に、「姉弟なのに」という後ろめたい考えがよぎって、ルナリスを混乱させた。
「もう、いつまで馬車の中にいるつもりですか? お夕飯の時間ですよ!」
そう言ってサフィナに引っ張り出されるまで、ルナリスはずっと座り込んでいた。




