番外編 宴の夜
それは、ベルク族の村を訪れて二日目の晩のことだった。
この村では、客人を三夜にわたる宴でもてなすのが習わしらしい。日が暮れると同時に、広場には篝火が焚かれ、人々が集い始めた。豪快に焼かれた肉の香ばしい匂いと、発酵した酒の甘酸っぱい匂いが混じり合い、夜風に乗って広がっていく。
ルナリスたちの前にも、大きな木皿に盛られた肉と、盃になみなみと注がれた酒が次々と運ばれてきた。
「遠慮するな! ベルクの酒は、飲めば飲むほど強くなる!」
そう豪語するのは、族長のヴァルクだ。
ルナリスとリヒトが婚約者同士だと知ってから、彼はあからさまに機嫌が悪い。今も鷲のような鋭い目つきで、リヒトを値踏みするように見ている。
「さぁ、王子。飲め」
ずしりと重い盃を押し付けられ、リヒトは困ったように笑った。
「あ、ありがとう。でも、あんまり強くなくて」
そう言いながら、ちびちびと誤魔化すように口をつける。
対して、隣のルナリスはというと、もう何杯目か分からない盃を、涼しい顔で空にしていた。
「……飲みすぎじゃない?」
思わず小声で声をかける。
「平気よ」
さらりと返され、リヒトは内心で首を傾げた。
(前は、こんなに強くなかったはずなんだけどな……)
前世では、彼女はここまで酒に強いタイプではなかった。それが今や、ベルク族の男たちと肩を並べる勢いだ。
そんなルナリスの様子に気をよくしたのか、ヴァルクが大声で笑った。
「面白い! なら、どっちが強いか決めようじゃねぇか!」
指差されたのは、ルナリスだ。
「飲み比べだ!」
「ちょっと待って! それはさすがに――」
慌ててリヒトが止めに入るも、
「王子様は黙ってな」
挑発的な言葉が返されて、空気がピリついた。
「酒も飲めないお子様は、指をくわえて見てるほうがお似合いだぜ」
――あ。
リヒトの中で、何かがぷつりと切れた。
「……俺が受けるよ」
「リヒト!?」
ルナリスが目を見開く。
「大丈夫。飲み比べ、だろ?」
「ほぉん。その度胸は買ってやるぜ」
こうして、勝負は始まった……のだが。
結果は、あまりにも明白だった。
最初の一杯を煽ったところで、リヒトの視界がぐらりと揺れた。
次の瞬間、意識がふわりと遠くなり、背にしていた黒狼の上へ倒れ込むはめになった。
これには、さすがのヴァルクも呆気にとられてしまう。
「いくらなんだって、弱すぎるだろ!」
消化不良の声が響く中、リヒトは宿泊用の家へ運ばれていくことになった。
どれくらい眠っていたのだろう。
意識が浮かび上がった瞬間、最初に感じたのは、柔らかな感触だった。
微かに聞こえる鼻歌。
後頭部に伝わる温もり。
耳元で、衣擦れの音。
「う、ん……」
ゆっくり目を開ける。視界いっぱいに広がったのは、満月のような金の髪と、優しげな瞳だった。
「起きた?」
囁くような声。
そこでリヒトは気が付いた。ルナリスの膝へ頭を乗せていることに。
一瞬で状況を理解して、リヒトの顔がかっと熱くなった。
「……っ!」
起き上がろうとして、ズキリと目の奥が痛む。
顔を顰めると、ルナリスの手が額に触れて、膝上に押し留められた。
「いいから。まだ、動かないで」
「で、でも……」
「倒れちゃったの、覚えてない?」
そう言われて思い出す。
挑発に乗って、飲み比べを受けてしまった。結果はこのとおり、惨敗だ。
「私のために、酔ったふりをしてくれた……わけじゃなさそうね」
くすり、と小さく笑う声。
ルナリスは、指先でリヒトの髪を撫でていた。
絡まった前髪を、無意識の仕草で整えるように。
「もう少しいけると思ったんだけどな」
「飲み比べに使われたの、羊乳酒よ。かなり弱いの」
「そっか……俺、本当に弱いんだ」
情けなく呟いた声に、ルナリスは小首を傾げた。
「なぁに、今まで分かってなかったの?」
「うん……少し弱いくらいかなって。今まで口を付けるだけにして、誤魔化してきたから。美味しいとも思えないし……」
「びっくりしたわ。あんなに一気に顔色が変わるんだもの」
「……そっちこそ」
リヒトは呻くように言った。
「なんで、そんなに強いのさ……」
膝の上からじっと見つめると、ルナリスはそこから少しだけ視線を逸らし、穏やかに答える。
「訓練したのよ。自分の身を守るためにね」
「……どういう意味?」
「酔わせて口説くなんて、貴族の常套手段だもの」
何気ない口調。
あまりにもさらっと言われて、リヒトは言葉を失った。
「そ、そうなの?」
「ええ」
「相手がいたとしても?」
「“火遊び”を楽しむ殿方には、そんなこと関係ないのよ」
知らなかった。
華やかな社交界の裏に、そんな危険が潜んでいようとは。
リヒトの胸に、妙な焦りが芽生える。
「今度から」
思わず、口をついて出る。
「ルナリスが酒を飲むときは、俺も一緒にいる」
「リヒト……」
「ちゃんと、そばにいるから」
見上げる視線は、少しだけ必死だった。
ルナリスは一瞬言葉を失い、それから、嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、私をちゃんと守ってね。王子様」
「……うん」
静かな沈黙が流れる。
やがて、ルナリスが膝上を覗き込む。ランプの薄明りを反射した瞳は、吸い込まれそうなほど美しい。
「起きられそう?」
本当は、もう大丈夫だった。
けれど。
膝の上の温もりが、あまりにも心地良くて。
髪を撫でる手が、優しくて。
離れたくない、そんな気持ちが勝ってしまう。
「……もう少し、横になっててもいい?」
掠れた声でそう言うと、
「少しだけよ」
困ったように笑いながらも、彼女は膝を引くことはしなかった。
宴の喧騒から切り離された小さな部屋に、再び鼻歌が流れる。
いつかどこかで聞いたことのある旋律に、リヒトは静かに耳を傾けた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
物語はまだまだ続きますので、今後もお楽しみいただけると嬉しいです。




