2話 常緑の国にて②
ルナリス・アイオライトは、ノクティリカの貴族家に生まれた令嬢である。
鉱石と魔力が支配する輝晶の国ノクティリカにおいて、生家であるアイオライト家は古くからその名を馳せてきた名門であり、重い責任と誇りを背負っていた。
厳格ながらも情に厚い父は忙しい中でも家族を大切にし、穏やかで優しい母はルナリスのよき理解者でもある。兄や使用人たちとの関係も良好で、ルナリスは多くの人間から見守られ、愛されて育った。
その美しい容姿もまた、愛情を注がれる理由のひとつだ。
満月にも似た光を宿す、波打つ金の艶髪。透き通る肌。
幻想的な菫青色の瞳は、まさに家名であるアイオライトを象徴している。
年頃になったルナリスは、しばしば「月の宝玉」と称され、社交の場でもひときわ目を引く存在となった。
もっとも、当の本人にとって、その美貌は煩わしさを伴うものであったが。
表立って口にされることはなくとも、向けられる羨望や嫉妬の眼差しには幼いころから気づいていた。
この容姿が、自分という存在の本質を覆い隠してしまうような気がして、息苦しさを覚えることも少なくなかった。
(私は、ただ綺麗なだけのお姫様には、なりたくないのに……)
美しく仕立てられた姿を鏡に映すたび、ルナリスはそんなことを考える。
幼い頃は、岩登りに夢中でスカートを破いたこともある。兄の剣術稽古を真似て、庭でこっそり木の枝を振り回したりも。
同世代の少女たちが流行りの恋愛小説に心をときめかせる一方で、ルナリスが夢中になったのは剣と魔法が織りなす冒険の物語だった。知らない景色や未知の地平に、心を惹かれていたのだ。
(本当はもっと自由に、風の吹くまま歩いてみたい)
そんな願いを、いつも胸の奥にそっと押し込めてきた。
アイオライト家の令嬢として生きる以上、本音は声に出すことすら難しい。
いつしか少女は、飾られた宝石のように、ただ静かに在り続けることしかできなくなっていた。
ひっそりと、本当の自分を隠しながら。
そして、心の奥にそっと仕舞った、もうひとつの秘密もまた、誰にも明かされることはなかった。
ルナリスには、今とは別の世界――言うなれば前世の記憶がある。
魔力や魔物の存在しない、不思議な光景に満ちた街並み。
天を仰ぐほど高い建造物に、空を飛ぶ大きな金属の鳥。
手のひらに収まるほど小さな板は、遠く離れた人間の顔を映し、まるで目の前にいるかのように会話ができた。
慣れ親しんだ、しかし今世では聞くことのない言葉が飛び交うその世界で、彼女は別の名前で呼ばれていた。
はっきりと覚えているわけではない。きっと、忘れていることのほうが多いのだろう。
まるで、ページの抜けた物語みたいに。
自分が何者でどう生きたのか、それ以外の記憶はぼんやりと霞んでいて。
そのもどかしさが、余計にルナリスの心を締め付けた。
(大切に思っていた人が、いたはずなのに……)
記憶の中で揺らいでいる輪郭。触れようと手を伸ばすと、それは消えてしまう。
懐かしさと微かなぬくもりを胸の奥に残したまま。
笑い声や優しい手の感触、何気ない日々の一片が、夢のように浮かんでは消えていく。
前世の記憶に触れるとき、どうしても胸をかすめる思いがある。
大切にしていた「誰か」は、今もその世界で生きていて、自分を覚えているのだろうか。あるいは、もうどこにもいないのだろうか――と。
ふたつの世界の記憶を抱えたまま、彼女はアイオライト家の令嬢として、役割を全うする日々を過ごしてきた。
けれどある日、その静かな均衡は揺らぐ。
ルナリスが21歳を迎えた誕生日、隣国のウォルフワーズから、若き第三王子との婚約話が舞い込んできたのだ。
表向きには、ノクティリカとウォルフワーズの国交復活八十年を祝っての、いわば政略的な結びつきだった。
17歳になる王子の名は、社交界でも何度か聞いたことがあった。だがルナリスにとって、これまで一度も言葉を交わしたことがないどころか、姿さえも知らない相手だ。
彼女の心は大きく揺れた。
それは運命の出会いを予感させるようなときめきなどではない。
目の前の世界が静かに、確実に変わっていく予兆だった。
――そして今、ルナリスは出会う。
前世で弟として愛した少年と。
記憶に眠るそのままの姿で現れた、リヒテンダルト・フォン・ウォルフワーズと名乗る、婚約者としての彼と。




