25話 交渉の行方①
二本の木を組むように架けられた梁の下で、囲炉裏の火がぱちぱちと小気味よく弾けていた。
ここはヴァルクの家。広場の喧騒から少し離れた場所にあり、質素ながらも丁寧に手入れされた一軒だ。
彼は季節ごとに移動する定住地ごとに、それぞれ三軒ずつ家を持っているらしい。前夜に訪れたのは本家で、戦利品や戦装束が誇らしげに飾られていたが、今いる家はずっと落ち着いた雰囲気だった。飾られた季節の花や、敷物に施された女性的な意匠の刺繍が、空気に柔らかな彩りを添えている。
なぜそんなに家を持つ必要があるのか。ルナリスが尋ねると、なんと彼には三人の妻がいるということが判明した。妻ひとりに対し、家が一軒。そしてここは、第二夫人の住まいだとヴァルクは言った。その夫人が、決闘の場でグルザーンを支えていた女性である。
囲炉裏を囲むのは、ルナリスとリヒト、そしてヴァルクとグルザーン。茶の入った鍋がことこと音を立て、香ばしい香りが部屋に広がっていた。
時折、部屋の奥に続く扉が静かに開き、女性たちが代わるがわる顔を覗かせる。彼の妻たちだ。年の近い三人はみな美しく、気高い瞳をしていた。
その中には、あの決闘の場でルナリスを鋭く見つめていた女性の姿もあった。彼女が第一夫人だという。
あの時の視線の意味を、ルナリスはようやく理解する。なるほど、あれはきっと嫉妬だったのだろう。そう思えば、怒るどころか、むしろ微笑ましく思えてしまう。
けれども、笑って済ませられない様子だったのが、ラセルや他の騎士たちだった。
ルナリスの耳には、この家へ来るまでの道中耳にした、ラセルの怒声がはっきりと残っている。
「ルナリス様を妻に望むどころか、4人目として、だなんて……言語道断です。あの男、首の骨を折っても足りません」
ラセルの瞳は本気だった。周囲の騎士たちも次々に「闇討ちか……?」「いや毒を盛る方が……」などと、物騒な案を出し始める始末。
彼らを止めるべき主であるはずのリヒトは、隊列の最後尾で、ぼろぼろに疲れた様子で歩いていた。けれど、その顔にはどこか満ち足りたような笑みが浮かんでいた。
「あなたも止めなさい!」
ルナリスが呆れ顔でそう詰め寄ると、
「大丈夫。彼らなりの冗談だよ」
リヒトは肩をすくめて笑ってみせる。
「本当に? なんだか皆、目が本気なのだけれど……。冗談、よね? 冗談と言ってちょうだい」
そう言いつつ、必死で彼らをなだめた自分を思い出して、今となってはなんだか可笑しくなる。笑みが零れそうになるも、ふいに動いた気配に、ルナリスは顔を上げた。
茶碗を手にしたグルザーンが立ち上がる。腰をかがめながらも、しっかりとした動きで、湯気を昇らせる湯をひとつずつ丁寧に注いでゆく。
「さ、遠慮はいらん。客人と囲炉裏を囲むのは、じつに久しぶりじゃ」
笑みとともに差し出された茶碗は、しっとりと温かい。
受け取ったルナリスが「ありがとうございます」と頭を下げると、グルザーンは穏やかにうなずいた。
「……すまなんだな。挨拶が遅れて」
苦笑まじりの声音に、リヒトが首を傾げる。
「お気になさらず。お体の具合がすぐれないと伺いました」
「ああ、少し前からな。腰のあたりがどうにも言うことをきかん。季節の変わり目には、昔の古傷が騒ぎおるのだ」
そう言って、グルザーンは自嘲気味に息をついた。
「数年前、魔獣とやり合ったときに負った傷じゃ。あれは酷いもんだった。歩くどころか、しばらくは床に這うのも難儀でな……」
ルナリスはふと、彼の姿を見つめ直す。今は確かに年老いた体だが、その瞳の奥には、戦場を駆け抜けた者だけが持つ凄みが宿っている。
その戦いでは、彼の息子――ヴァルクの父も命を落としたという。次期族長として期待されていた男が亡くなり、動けぬ族長が残された部族には、不穏な空気もあったはずだ。
だが、それを救ったのが、まだ十代だったヴァルクだ。
四つ足の魔物を討ち取ったという戦果は、反発の声さえも飲み込ませるほどの説得力を持っていた。
グルザーンは、囲炉裏の火に視線を落としながら言った。
「ようやってくれておるよ、ヴァルクは……。だが、やはり若い。まだまだ、考えが浅い部分もある。祖父としては、どうにも歯がゆくてな。すまんのう」
その言葉に、リヒトが少しだけ目を細める。
「では、前族長としてのご意見は?」
核心を突く問いだった。
グルザーンの瞳が細くなり、しばしの沈黙のあと、唇に微笑を浮かべる。
「ふふ……聞いてくれるか。ならば、前族長として申そう。あの場の決闘は正式なものだ。古の作法に則った以上、覆ることはない。たとえ相手が、王に連なる者であったとしてもな」
そこに滲むのは、誇り高い戦士としての矜持だった。
しかし、彼は茶碗を片手にゆっくりと首を振る。
「……じゃが、今回の決闘は引き分けじゃ。儂はすでに退いた者。最終的な判断は、現族長に任せるつもりだ」
ヴァルクの方へ目をやると、彼は手元にあった首飾りを指先で弄んでいた。
大鷲を模した木彫の飾り。翼を広げたその姿には傷ひとつなく、ただ、首紐だけが断ち切られている。
「これを身に着けて以来、土を付けられたのは初めてだった」
ヴァルクの声は低く、どこか清々しい響きを持っていた。
「……しかも、お前は心臓を狙えた。なのに、刃を逸らしたな。大鷲を傷付けず、紐だけを断ってみせた」
その意味を、彼はもうとっくに悟っているのだろう。
あの場にいたルナリスのために、リヒトは血を流すことを避けた。
「思えば……お前は最初からそうだったな。彼女の尊厳も、意志も、奪わせまいとしていた」
安穏と生きている王子だと思っていた。お綺麗な服を着て、臣下に傅かれ、戦も知らぬような王子だと。
けれど。
ルナリスに迫った夜、彼女を守るために迷いなく立ち塞がった度胸。
恐れずに、ただひたすら好機を狙った瞳。
そして、手にした首飾りを丁寧に拭い、まるで宝物のように両手で差し出してきたあの姿。
リヒトは違った。思い描いていた、ただの王子ではなかった。そして――自分はそれを、見誤った。
緑の瞳を真っ直ぐに見つめながら、ヴァルクは小さく笑った。
「この決闘は俺の負け――完敗だよ」




