24話 崖上の決闘④
刃が、リヒトの首筋に添えられていた。
ヴァルクは、そのままの姿勢で動かない。切り裂こうと思えば、それは容易いはずだった。けれど、彼の腕もまた、宙で凍りついたままだった。
広場に集まる村人たちの歓声が、しだいに高まってゆく。
「族長が勝ったぞ!」
「さすがヴァルク様だ!」
彼らの多くには、首飾りが落ちたことなど見えていない。見えていたとしても、何の意味を持つかまでは理解できない。
だが、立会人たちは違った。誰ひとりとして、口を開けなかった。
勝敗の宣言をする者がいない。
その異様な静寂を破ったのは、広場の後方から響いた、ひとつの声だった。
「――その勝負は、引き分けだ」
観衆が一斉に振り返る。そこにいたのは、若い女性に肩を貸されながら、ゆっくりと進み出るひとりの老人。
深い皺を刻んだ顔。腰は大きく曲がり、歩くたびに杖が地を打つ。それでも彼の姿を見た途端、人々から歓声が消え、どよめきが広がっていく。
「グルザーン様……!」
ヴァルクの立会人だった女性が、老人の名を呼ぶ。
ルナリスは、はっとして彼を見つめた。
隣に控えていたラセルもまた、何かを察したように目を見開いている。
「あの方は……」
「名を聞いたことがあります。……あの方は、もしや、ベルク族の前族長では――」
そんな二人の耳に、微かに届いた。
決闘場に立つヴァルクの呟きが、風に乗って。
「……じいさん」
現れたのは、前族長。かつてベルク族を率いた男であり、そして、ヴァルクの祖父だった。
彼の進む道を、誰もが無言で開ける。
岸壁に沿って設けられた階段を、グルザーンはゆっくりと上っていく。老いた体が風に揺れ、今にも崩れそうだったが、その足取りだけは確かだった。
やがて彼は、決闘場へとたどり着いた。
「この戦いには、勝者も敗者もおらん」
掠れてしわがれた声。だが、その響きはなおも力強い。
長きにわたり一族を率いてきた、「岩のごとき誇り」の名を持つ男。
老いてなお、その威厳は周囲を圧倒し、誰ひとりとしてその言葉を否定できなかった。
「……兄上の勝ちだ!」
――いや。一人だけ、いた。
ヴァルクの弟が、怒気を帯びて前族長に詰め寄った。
「首飾りが切られたからって、何だって言うんですか! 兄上は、ベルク族を背負って誰よりも戦ってきた。俺たちの誇りそのものなんだ! 引き分けなどありえない!」
その目は真っ直ぐで、揺るぎない兄への信頼に満ちていた。
けれど、彼はまだ若い。象徴が失われることの意味や、一族を導く責任の重さを本当には知らない。
若さゆえの激情は、理ではなく心の叫びとして、広場に響き渡る。
グルザーンは、少年を叱りはしなかった。
ただ静かに耳を傾け、やがて、深い声で言った。
「命は、誇りよりも尊い。だがな……ベルク族にとって、誇りは命よりも重い。そして、お前もいずれ、その重さを知ることになる」
年老いた男が紡いだ言葉は、ただの戒めでも教訓でもない。
積み重ねた時の重みと、一族の魂が宿っていた。
しばしの沈黙ののち、ヴァルクがふっと鼻で笑った。
「ちっ、じいさんの言うことは、いちいち小難しくっていけねぇや」
その声音には、もはや棘も圧もない。
むき出しの肩からわずかに力が抜け、闘気が霧散する。
ヴァルクは、ようやく刃を下ろした。その瞳には怒りも迷いもない。ただ、張りつめた糸が切れたかのように、穏やかな顔をしている。それは、いつでも飄々としている男が見せた、はじめての表情だった。
そしてリヒトもまた、長い吐息とともに、剣を鞘へとしまった。
彼は崩れ落ちそうな膝をなんとかこらえ、かろうじて立ち続けていた。脱力感と疲労が全身を襲い、今すぐにでも座り込みたくなる。
だが、膝をつくことは、彼の矜持が許さない。
代わりにリヒトは、足元に転がっていた首飾りに目を落とした。
大鷲の姿を象った、木彫りの首飾り。土埃にまみれたそれを、静かに拾い上げる。そして自らの手で汚れをぬぐい、まるで宝物を扱うようにして、ヴァルクの前に差し出した。
「これが本当の戦だったら……たぶん、俺の首は飛んでたと思うよ」
弱々しくも笑うリヒトに、ヴァルクのまなざしが揺れる。
「お前は心臓を狙えたはずだ。なのに、あえて首飾りを……なぜだ?」
ヴァルクの問いかけに、リヒトは目を伏せることなく、正面から答えた。
「あなただって、首をはねなかった」
一拍の間を置いて、静かに言葉を継ぐ。
「それに――血を流すことを、彼女は望まないだろうから」
静寂の中、その言葉だけが凛として響いた。
ルナリスは、その声に、心を奪われたように駆け出していた。




