23話 崖上の決闘③
かつて、北西の草原を四つ足の魔物が蹂躙した。
夜を駆け、羊を喰らい、武装した戦士すらなすすべもなく倒れていく。
長きにわたりベルク族を苦しめたその魔物を討ち果たしたのが、若き日のヴァルクだった。
父であり、次の族長と目されていた男は、その戦いの中で命を落とした。
息子であるヴァルクは、死闘の果てに、深手を負いながらも最後に魔物を屠った。
それ以来彼は英雄として崇められ、やがて族長として頂に立つこととなった。
彼が振るう曲刀は、魔物の鋭い牙も、鋼のように硬い皮膚すら切り裂く。
その凶刃が、今、容赦なくリヒトに襲いかかる。
舞うような身のこなしに、リヒトは翻弄されていた。
迫る刃、しなる腕、予測のつかぬ足運び。
ヴァルクの動きは荒々しくも洗練され、まるで自由に吹き荒れる烈風のようだった。
攻めようとすれば却って誘い込まれ、かといって引き際を見誤らない。鋭い鷲の目を持つ戦士は、培ってきた勘と確かな実力を持ってリヒトを翻弄した。
気付けば、剣を振るう間もなく、防戦一方に追い込まれる。
実戦経験の差は明らかだった。それでも、なんとか襲い来る斬撃を防ぎきる。
「どうした、王子さま。威勢がいいのは口だけか?」
余裕すら漂う声に、リヒトの眉が僅かに動いた。
ヴァルクが僅かに間合いを取った、その瞬間。
リヒトは低く踏み込み、反撃に出た。
キィン、と音を立て、剣はあっさりと弾かれる。ヴァルクの身体は、しなやかな軌道でかわし、さらに距離を詰める。
喧騒が、遠くから響いている。
剣を交える二人の男には、そのざわめきも声援も届かない。
刃と刃がぶつかり合う金属音が、澄んだ空気を裂く。
地を蹴る音。砂の跳ねる音。
荒く、鋭く、研ぎ澄まされた鼓動が漏れ出るかのような呼吸。
ただその音だけが、世界を満たしていく。
彼らは、ただ目の前の相手だけを見ていた。
どんな小さな動きも見逃すまいと、意識のすべてが戦場に沈み込む。
まるで、他のすべてが遠ざかり、存在しないかのように。
ふと気づけば、太陽はすでに地平に沈んでいた。
地平線に残る最後の金の名残が、剣の刃にわずかに反射して煌めく。
代わりに、夜の紫が静かに訪れ、決闘の場を冷たく包みはじめていた。
弧を描いて旋回しながら、大鷲が二人の男を見つめている。
ゼファーの姿は見えないが、あの狼のことだ。どこかの高みで、この戦いを悠然と見ているに違いない。
(――見極めろ)
浅い切り傷。かすり傷。
幾つもの小さな痛みが、リヒトの身体を蝕んでいく。
それでも、彼の瞳は決して諦めていなかった。
相手の動きを、ひとつたりとも逃すまいと目を凝らす。どれほど間近に刃のきらめきが走っても、決して視線を外さない。
(素早さは……ゼファーの方が上だ。剣戟の重さなら、兄のほうが、ずっと強い)
それでも、今の自分は押されている。
(最も厄介なのは、この体捌きだ)
曲刀が舞うたびに、空気が斬り裂かれる。
身体をひねり、タイミングをずらし、しなやかな腕が伸びる。
足の一歩一歩は、単なる移動ではない。それ自体が、れっきとした攻撃となる。素早い蹴りは鞭のように足を打ちすえ、疲労と痛みをじわじわと重ねていく。
だが、隙が無いように見えるその動きにも、ひとつだけ穴があった。
それは、地に戻る瞬間。着地だ。
しなやかな動きは、着地の一拍だけわずかな鈍りを見せる。
(……いける!)
リヒトは剣を構える。
突きの構えから、鋭く刃を繰り出した。
だがそれは、攻撃のためではない。
ヴァルクに反射的に後退させる――それが狙いだ。
彼は銀の髪を躍らせて、とん、と宙を舞う。その瞬間に、リヒトは全てを賭けた。
土を蹴る。
ありったけの力を込めて、地を斬るように踏み込む。
風を裂くように、剣が弧を描いた。
舞い上がる土埃。
一拍の沈黙。
視界が開ける。
そこにいたのは、わずかに反れたリヒトの剣と――その刃をかわし、逆に首元へと曲刀を突きつけるヴァルクだった。
「――ッ」
ルナリスは声を呑んだ。
しかしすぐに、ある違和感に気づく。
リヒトの剣が切ったもの。それは、ヴァルクの肌でも、服でもない。
小さな音を立てて、何かが男の足元に落ちる。
そこには、大鷲の姿が象られた首飾り。
ベルク族の誇りが、静かに、地に伏していた。




