20話 月の宝玉③
空は薄く曇り、陽の光はぼんやりとした白に包まれていた。澄んだ空気は肌寒く、吹く風は朝露に湿った土の匂いを漂わせる。
共同洗濯場からの帰り道、ルナリスは洗いたての衣類を詰めた籠を腕に抱え、ラセルと並んで歩いていた。
今回の旅は強行軍となり、荷物も必要最低限に絞られている。その結果、こうして自分たちで洗濯をしなければ、着るものが足りなくなってしまうのだ。
多少の埃や汚れならまだ我慢できる。だが、汗のにおいをまとったまま過ごすのだけは、どうしても耐えがたかった。
冒険への憧れを抱いていたとはいえ、ルナリスはれっきとしたアイオライト家の令嬢であり、今は王子の婚約者という立場でもある。粗末な格好でよしとするわけにはいかなかった。
「――まさか、そんなことになるなんて」
昨晩の話を聞いて、ラセルはため息交じりに嘆いた。短く整えられた赤髪の下で、凛々しい眉が寄せられている。
「族長との決闘だなんて、殿下は本気なのですか? ベルク族は、村で一番強い男が族長を務める。それが伝統なんです。つまり……」
「つまり、彼の強さは本物ってことね」
ルナリスは小さく笑いながら、曇天を見上げた。気丈にふるまってはいるが、その瞳はかすかに陰っている。
「ええ、それに……あの人の剣、あれは曲刀です。ウォルフワーズでは滅多に見ない形。間合いも戦い方も、殿下は初めて対する相手になる。実戦経験だって、雲泥の差です」
ラセルの声には、焦りと憂いが滲んでいた。
それを受け止めながらも、ルナリスは静かに首を横に振った。
「分かってる。でも、もう決まってしまったの。もう……後には引けないのよ」
もちろんルナリスだって、あのような無謀な賭けを止めなかったわけではない。
まだ他の水源を探せる、戦うことだけが道ではない。昨晩、族長の家をあとにしてから、ルナリスはリヒトにそう訴えた。
だが、彼の答えは変わらなかった。
ノクティリカに近く、現実的に水の供給が可能な土地は限られている。
ベルク族が治めるこの北西部か、あるいは西部の湧水地。
その西部グランメル領にも水源を求める予定ではある。だが、今まさに問題となっている水質汚染の水は、まさしくそのグランメル領からもたらされたものだった。
水源そのものが汚染されているのか、それとも経路に原因があるのか、調査はこれからだ。
いずれにせよ、他国の水路――それも魔道上水道という、この国では馴染みのない装置を横断させるというのは、政治的にも非常に難しい。現在引かれている水路も、ノクティリカに近いという理由で、かろうじて許されているだけなのだ。
なにより、すでにルナリスは知っている。
リヒトはあの時、すべてを承知のうえで、戦う覚悟を決めていた。
ノクティリカの未来、そしてルナリスのために。
それが、誇りをかけた王族としての決意だった。
誰にも止めることなどできない。否、止めてはならないのだと、ルナリスは悟っていた。
「……殿下は、今どちらに?」
「ゼファーと一緒に。少し体を動かしたいって」
ルナリスの視線は、村の外れに続く小道へと向けられる。
広場に差し掛かると、そこではすでに人々がざわめいていた。昨夜の決闘の話は瞬く間に広がり、村中の関心を集めているらしい。彼女たちの背後では、誰かが「決闘はいつだ」とか「どちらが勝つと思う?」と囃し立てていた。
そんな中、小さな足音が近づいてくる。
声をかけられて振り返ると、民族衣装のケープを羽織った少女が立っていた。以前、ルナリスに鷲羽の髪飾りを手渡した少女だ。
「お姉ちゃん……ほんとうに、族長のお嫁さんになるの?」
まっすぐに向けられた瞳に、ルナリスは一瞬戸惑い、それから困ったように微笑む。
「ううん、ならないよ」
「えっ、どうして……? 族長って、かっこいいし、強いし、みんな好きだよ?」
「そうね。たしかに、素敵な男性だと思うわ」
ふっくらとした少女の頬に、曇り空からこぼれる淡い光があたる。
「じゃあ、お姉ちゃんの王子さまって、もしかして……あの緑の目のお兄ちゃん?」
はにかんだように尋ねる無垢な瞳が、きらきらと輝いた。年齢に似合わぬほど恋に憧れているらしい。ラセルがくすりと笑うのを横目に、ルナリスはほんの少し頬を染めてうなずいた。
「……うん。私の王子さまは、あの人」
「じゃあ、教えてあげる! この村にはね、おまじないがあるの!」
「おまじない?」
「うん! 大切な人が、無事に帰ってきますようにって」
ベルク族はひとつの場所に留まらず、季節ごとに暮らしを移す民だ。遊牧で家族が離れて暮らすことも多く、そのぶん「帰還」には特別な意味があるのだろう。そしてそれは、戦いに赴く者に対しても同様に。
「おまじない」は、家族を見送るベルク族が密かに託す、願いの象徴だった。
少女はそっとルナリスの腕を引いた。
「それはね――」
ルナリスは腰をかがめ、少女の口元に耳を寄せる。少女は嬉しそうに、こっそりと言葉を囁いた。
ラセルが少し離れて見守る中、ルナリスの表情がゆっくりと緩んで、やがて赤く染まる。
淡い曇りの下、少女の声と、風の音だけが静かに流れていた。




