表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
異世界転生したら、弟が婚約者になりました  作者: くなぎ八重
第一章 常緑の国を巡る旅
21/40

20話   月の宝玉③


 空は薄く曇り、陽の光はぼんやりとした白に包まれていた。澄んだ空気は肌寒く、吹く風は朝露に湿った土の匂いを漂わせる。

 共同洗濯場からの帰り道、ルナリスは洗いたての衣類を詰めた籠を腕に抱え、ラセルと並んで歩いていた。

 今回の旅は強行軍となり、荷物も必要最低限に絞られている。その結果、こうして自分たちで洗濯をしなければ、着るものが足りなくなってしまうのだ。

 多少の埃や汚れならまだ我慢できる。だが、汗のにおいをまとったまま過ごすのだけは、どうしても耐えがたかった。

 冒険への憧れを抱いていたとはいえ、ルナリスはれっきとしたアイオライト家の令嬢であり、今は王子の婚約者という立場でもある。粗末な格好でよしとするわけにはいかなかった。


「――まさか、そんなことになるなんて」


 昨晩の話を聞いて、ラセルはため息交じりに嘆いた。短く整えられた赤髪の下で、凛々しい眉が寄せられている。


「族長との決闘だなんて、殿下は本気なのですか? ベルク族は、村で一番強い男が族長を務める。それが伝統なんです。つまり……」

「つまり、彼の強さは本物ってことね」


 ルナリスは小さく笑いながら、曇天を見上げた。気丈にふるまってはいるが、その瞳はかすかに陰っている。


「ええ、それに……あの人の剣、あれは曲刀です。ウォルフワーズでは滅多に見ない形。間合いも戦い方も、殿下は初めて対する相手になる。実戦経験だって、雲泥の差です」


 ラセルの声には、焦りと憂いが滲んでいた。

 それを受け止めながらも、ルナリスは静かに首を横に振った。

 

「分かってる。でも、もう決まってしまったの。もう……後には引けないのよ」


 もちろんルナリスだって、あのような無謀な賭けを止めなかったわけではない。

 まだ他の水源を探せる、戦うことだけが道ではない。昨晩、族長の家をあとにしてから、ルナリスはリヒトにそう訴えた。

 だが、彼の答えは変わらなかった。

 ノクティリカに近く、現実的に水の供給が可能な土地は限られている。

 ベルク族が治めるこの北西部か、あるいは西部の湧水地。

 その西部グランメル領にも水源を求める予定ではある。だが、今まさに問題となっている水質汚染の水は、まさしくそのグランメル領からもたらされたものだった。

 水源そのものが汚染されているのか、それとも経路に原因があるのか、調査はこれからだ。

 いずれにせよ、他国の水路――それも魔道上水道という、この国では馴染みのない装置を横断させるというのは、政治的にも非常に難しい。現在引かれている水路も、ノクティリカに近いという理由で、かろうじて許されているだけなのだ。

 なにより、すでにルナリスは知っている。

 リヒトはあの時、すべてを承知のうえで、戦う覚悟を決めていた。

 ノクティリカの未来、そしてルナリスのために。

 それが、誇りをかけた王族としての決意だった。

 誰にも止めることなどできない。否、止めてはならないのだと、ルナリスは悟っていた。


「……殿下は、今どちらに?」

「ゼファーと一緒に。少し体を動かしたいって」


 ルナリスの視線は、村の外れに続く小道へと向けられる。

 広場に差し掛かると、そこではすでに人々がざわめいていた。昨夜の決闘の話は瞬く間に広がり、村中の関心を集めているらしい。彼女たちの背後では、誰かが「決闘はいつだ」とか「どちらが勝つと思う?」と囃し立てていた。

 そんな中、小さな足音が近づいてくる。

 声をかけられて振り返ると、民族衣装のケープを羽織った少女が立っていた。以前、ルナリスに鷲羽の髪飾りを手渡した少女だ。


「お姉ちゃん……ほんとうに、族長のお嫁さんになるの?」


 まっすぐに向けられた瞳に、ルナリスは一瞬戸惑い、それから困ったように微笑む。


「ううん、ならないよ」

「えっ、どうして……? 族長って、かっこいいし、強いし、みんな好きだよ?」

「そうね。たしかに、素敵な男性だと思うわ」


 ふっくらとした少女の頬に、曇り空からこぼれる淡い光があたる。


「じゃあ、お姉ちゃんの王子さまって、もしかして……あの緑の目のお兄ちゃん?」


 はにかんだように尋ねる無垢な瞳が、きらきらと輝いた。年齢に似合わぬほど恋に憧れているらしい。ラセルがくすりと笑うのを横目に、ルナリスはほんの少し頬を染めてうなずいた。

 

「……うん。私の王子さまは、あの人」

「じゃあ、教えてあげる! この村にはね、おまじないがあるの!」

「おまじない?」

「うん! 大切な人が、無事に帰ってきますようにって」


 ベルク族はひとつの場所に留まらず、季節ごとに暮らしを移す民だ。遊牧で家族が離れて暮らすことも多く、そのぶん「帰還」には特別な意味があるのだろう。そしてそれは、戦いに赴く者に対しても同様に。

 「おまじない」は、家族を見送るベルク族が密かに託す、願いの象徴だった。

 少女はそっとルナリスの腕を引いた。

 

「それはね――」


 ルナリスは腰をかがめ、少女の口元に耳を寄せる。少女は嬉しそうに、こっそりと言葉を囁いた。

 ラセルが少し離れて見守る中、ルナリスの表情がゆっくりと緩んで、やがて赤く染まる。

 淡い曇りの下、少女の声と、風の音だけが静かに流れていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ