19話 月の宝玉②
しばしの沈黙ののち、ヴァルクは目を閉じ、苦笑のようなものを漏らす。
そして再び、ルナリスを見つめた。
「――あんた、やっぱりいい女だな」
それは軽口ではなかった。
強さも弱さも隠さず言葉にしたその姿に、素直に胸を打たれたのだ。
風にさらされても燃え続ける焔のように、凛として揺るがない、まっすぐな意志――その美しさに。
軽薄で掴みどころのない男が寄こした、何の装飾もない一言。
突然すぎる言葉に、ルナリスは瞬きをした。
リヒトはわずかに顔を上げ、ゆっくりと視線をヴァルクに向ける。
ふいに変化したヴァルクの態度。それは、取引相手から人としての興味へと軸足を移した証だった。
気まぐれとも取れるその目の奥に、別の色を垣間見て、リヒトは内心で警鐘を鳴らす。
表情は王子としての仮面のまま、穏やかな微笑を湛えている。だが、その瞳の奥には鋭い光が灯っていた。
「交渉の場としては、いささか率直すぎる感想ですね。ベルクの長殿」
柔らかく、けれど一切の隙を与えぬ声音。そこには、声ひとつだけで全てを跪かせることができる、統率者としての圧が感じられた。
しかしヴァルクはというと、リヒトの警戒を楽しむかのように肩をすくめて笑う。
「へえ……さすが、狼の国のお坊ちゃま。牙の光らせ方が、ずいぶんと上品だ」
そう言って、ゆっくりと立ち上がる。
獣じみたしなやかさで歩を進め、ルナリスのすぐ前まで来ると、その目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「……だが、俺は欲しいと思ったものを、簡単に諦めるほどおとなしくもねぇ」
それはまるで、獲物を狙う鷲のような目で。
ルナリスは動けない。不穏な気配を察知しながらも、その視線を真正面から受けた。
そして、
「――妻になれ。そうすりゃ、いくらでも水源を使わせてやるよ」
ヴァルクが言い放った言葉に、息を呑んだ。
静まり返った室内に、夜風の音がかすかに流れ込む。
囲炉裏の火の中へ、小さな羽虫がふわりと飛び込む。パチリと音を立てて弾けるその瞬間、室内の緊張がさらに際立った。
言葉が、出ない。干からびたように喉が渇いているのに、手も足も、凍えたかのように感覚がない。
「……そ、それは……」
なんとか絞り出した声は、消え入りそうなほど掠れていた。
言葉が続かない。思考が追いつかず、心が拒絶し、でも簡単に否定できるほどに――今、自分が立っている立場は軽くない。
そんな彼女の動揺を遮るように、リヒトの低い声が響いた。
「それが、族長としての答えか」
その瞳は、感情を押し殺してなお、鋭く光を宿していた。王子としての威厳と、譲れない怒りがにじんでいる。
「族長としても、男としても、な」
ヴァルクは飄々とした口ぶりを崩さずに答えた。
リヒトの肩がわずかに揺れる。次の瞬間、彼は立ち上がり、すっとルナリスの前に出た。
そして、片腕を彼女の前に伸ばす。まるで、ヴァルクの一言すら拒むように。
「――真摯な願いに対する答えが、それか?」
今度は、明確な怒気があった。だが、それ以上に、ルナリスへの真剣な想いが込められていた。
「彼女は命をかけてここへ来たんだ。ただの使者じゃない。心からの願いを言葉にして、真正面からあなたと向き合った。その気持ちに対して、見返りとして“自分を寄こせ”と? 本気なのか、それは」
ヴァルクの笑みが、ほんのわずかに消える。
「本気だからこそ、欲しいんだよ」
その声に、虚飾はなかった。迷いも、誤魔化しもなく、ただ、真っ直ぐな欲望が乗っていた。
ルナリスは動けなかった。心が揺れる。
嫌だ、という感情が胸の奥に芽生える。けれど、それを言ってしまったら、水源は?
自分の拒絶が、多くの命に繋がっていることも、重々わかっている。国の命運がかかっている。
だが――。
(……隣に、いられなくなる?)
脳裏をよぎるのは、リヒトの姿。
過去も、今も、彼の隣で笑っていたいと願っている。それを失うことが怖い。心を引き裂かれるほどに。
たったそれだけの本音が、胸の奥からあふれ出てきそうだった。
水源と、リヒト。
両方を望むのは、わがままなのだろうか。
「ルナリス」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げる。リヒトの声は、穏やかだった。
「……条件を呑む必要はない。君が望まないのなら、それでいい」
緑の瞳が、静かに力強く輝いていた。今や、彼はただの少年ではなく、国の未来を背負う者の目をしていた。
「……水源は、どうするんだ?」
挑発めいたヴァルクの言葉に、ルナリスの細い方が、ピクリと揺れる。
だが、リヒトは眉ひとつ動かさない。視線だけの、言葉のない押し問答が続く。
「……なら、こうしよう」
ヴァルクはゆっくりと立ち上がった。火の揺らめきが彼の影を壁に濃く落とす。
「お前が決めろ、王子さま。お前が、彼女を護りたいなら――力で証明してみせろ」
ルナリスが顔を上げる。同時に、囲炉裏の火が再び、ぱちりと音を立てた。
「古来よりこの国では、欲しいものは力で奪い取ってきた。血を流し、誇りを守る。それが、俺たちのやり方だ」
ヴァルクの瞳が、挑発的に語りかけてくる。
リヒトの脳裏に父王の背が浮かんだ。
かつて争いを重ねていたこの地に、和と尊重の秩序を根づかせた王の姿。
武で支配する時代を終わらせるため、長い年月をかけて積み上げてきた信頼。
(それでも――今は)
「……いいだろう」
リヒトは深く、静かに頷いた。
「奪い取るためじゃない。彼女の気持ちを、彼女の尊厳を、踏みにじらせないために」
その言葉に、ルナリスの目が大きく見開かれた。
胸の奥が熱くなった。まるで、硬く凍りついていた何かが、ひたりと溶けていくように。
(リヒト……)
彼が自分のために、こんなにも強く、まっすぐに守ろうとしてくれることが伝わってくる。
それがどうしようもなく嬉しくて。
そして、苦しかった。




