1話 常緑の国にて①
ばさり、と風を裂く羽音がどこかで鳴った。
思わず振り返るも、視線の先に鳥の姿は無い。
瞳に映るのは、抜けるような青空と、それを背景に揺れる染布。この国の伝統工芸品である色とりどりの鮮やかな布が、風を受けて踊っている。
ルナリスはそこで、自分が立ち尽くしていることに気が付いた。異国の使節団来訪を祝う迎賓市で賑わう城下町の一角、辺りは祭りの熱気で溢れかえっている。
ぼんやりしてしまったのは、この暖かな空気のせいだろう。祖国であるノクティリカの冷たさとはまるで違う、思考がふわりと浮くような穏やかな風。
どこからか鐘の音が聞こえる。酒を飲み交わす住人たちの笑い声や、商人たちの掛け声、子供たちがはしゃぐ声。そんな人の波をかき分けるかのように進む荷馬車の音。どれもが生き生きと感じられ、この国の豊かさを証明していた。
ルナリスは小さく息を吐き、視線を巡らせる。
そんなときだった。
人波の向こうに、少年の後ろ姿を見つける。
少し癖のある髪をふわふわ揺らし、のんびりと歩く背中。陽の光を受けて輝く赤茶色の髪に、ルナリスは息を呑んだ。
波立つ胸の鼓動に急かされるように、体が動く。気付いた時には、侍女の制止する声も聞こえずに少年の姿を追っていた。
人々の間をすり抜けるようにして、ルナリスは歩を速める。侍女も慌てて追いかけようとするが、群衆に押されて足止めされてしまったようだ。名前を呼ぶ声も、ざわめきに呑まれて遠くなる。
少年の背が、ぐんぐんと迫る。もう少しで、手が届くほどに。
(待って!)
そう声をかけようと、ルナリスが口を開いたとき。
「危ない!」という民衆の叫びと同時に、隣を通っていた荷馬車ががたん、と大きく揺れた。積まれていた樽がひとつ、荷台からこちらに向かって転がり落ちてくる。ルナリスは視界の端でそれを捉えるも、咄嗟の出来事に動けなかった。
「っ……!」
襲い来るであろう衝撃に身体が強張る。
だが次の瞬間、誰かの手がルナリスの腕を強く引いた。
体が宙に浮いたような感覚のあと、背中をしっかりとした腕に抱きとめられる。
転がった樽が彼女のすぐ横を、地面を削るような音を立てて通り過ぎていった。
「間一髪、ってところかな」
安堵のため息と共に声が聞こえる。僅かに幼さを残した、暖かな陽だまりのような響きのそれが少年から発せられたことに、ルナリスはすぐに気づいた。
だって、違えようがないのだ。この声に。
恐る恐る顔を上げる。目の前に、見覚えのある顔が見えた。
優しげな目元、新緑を思わせる緑の瞳。そして陽光を浴びてきらめく赤茶色の髪。
少年の姿は、ルナリスの奥で霞んでいた記憶を鮮やかに蘇らせる。
似ている。驚くほどに。
いや――似ているなんてものではない。
「――リト?」
ルナリスは唇を震わせながら名を呼ぶ。
少年からの返事は無い。だが、その瞳が驚きに揺れるのを見て、確信した。
もう一度名を呼ぶ。大切な記憶を辿るようにしっかりと、鮮やかな今を刻み込むようはっきりと。今度は、喜びに震えた声で。
「リト!」
それはかつての自分が愛した、大切な家族――弟の名前だった。




