18話 月の宝玉①
宴は、二夜、三夜と続いた。
二日目には、警戒していた護衛の騎士たちも、いつしか焚き火を囲んで杯を交わすようになっていた。村の女たちも笑いさざめき、肉を焼き、この地に伝わる歌を口ずさむ。
三日目ともなれば、あちこちに自然な人の輪ができ、誰かが語れば誰かが笑い、どこかで笛が鳴れば、それに合わせて踊りが生まれた。
けれど、そんな陽気な空気の中でも、ルナリスとリヒトは杯に口をつけることはなかった。
夜の帳が下りきった頃。宴の余韻がまだ残る村の一角を、ふたつの影が静かに進んでいた。
高地の夜は、ひやりと肌を刺す冷たさがある。
ルナリスは埃まみれになった乗馬服から、旅装のワンピースに着替えていた。吹く風が裾を靡かせて、足にまとわりつく。細く息を吐きながら、
「……寒いわね」
と言って、外套の首元をぎゅっと握る。その指先が強張っているのは、寒さのせいだけではないだろう。
気づいたように、リヒトが歩調を少しだけゆるめる。
そうして、隣に並んだ彼は何気ないように言葉を続けた。
「ここは風が通るから。……けど、星が綺麗に見えるんだ。山の夜は、それだけは得だよ」
冗談ともつかぬ一言だったが、その声には気遣いの温度があった。
ルナリスは一瞬だけ視線を横にやり、そして、わずかに頷く。
ヴァルクの住まいは村の一番奥にある。祭器や戦具が並ぶその家の前には、すでに女性騎士ラセルが控えていた。彼女の無言の頷きに背を押されるようにして、ルナリスは扉の前に立つ。先にヴァルクから伝えられていた通り、ノックを5回鳴らす。すぐに「入れ」という声が返された。
「へぇ。さっきまでの凛々しい姿もよかったが、それも悪くねぇ」
ヴァルクは品定めするようにルナリスを見やった。視線はあからさまに上から下まで、しかし不快にはならない絶妙な間合いを保っているあたり、色々と手馴れていることが窺える。くいと顎で部屋の中を示す彼の口元は、軽口の余韻を引きずるように悪戯っぽく歪んでいた。
扉をくぐった瞬間、鼻先をくすぐったのは、乾いた干し草のような香りだった。
壁には、討ち取られた魔物の毛皮がいくつも掛けられ、その威容が今もなお空気を圧している。鷲の羽飾りをふんだんに使った衣装が、木のハンガーに掛けられているのも目に留まった。その色彩は勇ましく、部族の誇りを物語っているかのようだった。
敷物や寝台の端々には、緻密な刺繡が施されている。力強い幾何学模様が連なり、そのどれもが意味を持つように思えた。誇示するわけではないが、ただの粗野な戦士の住まいではない。ここは族長の家なのだと、否応なく実感させられる空間だった。
囲炉裏には小さな火が揺れ、乾いた音を立てている。ルナリスとリヒトは、ヴァルクと向かい合う席に静かに腰を下ろした。
「……お時間をいただき、ありがとうございます」
「礼など無用。客人を迎えるのは我らの誇りだ」
そう言ったヴァルクは、相変わらず飄々とした笑みを浮かべていた。その目には、族を率いる者の揺るぎなさが宿っている。
ルナリスは姿勢を正し、あらためて口を開こうとした。礼儀を重んじるノクティリカで育った者として、まずは形式的な前置きを――そう思った矢先、ヴァルクがひょいと片手を上げて彼女の言葉を制した。
「あぁ、長ったらしい挨拶は性に合わねぇ。さっさと本題に移ろうや」
ルナリスは一瞬、言葉を失う。だが、その無遠慮さの奥に、本質を見据える真っ直ぐな視線を感じ取った。
「お話が早くて助かります」
わずかに微笑んでそう返したルナリスだったが、内心には別の感情がよぎっていた。
これは、油断できない相手かもしれない。
正面に座るヴァルクの態度は軽薄にも見えるが、見下すでも、からかうでもない。獣のような直感と本能を持ちながらも、鷲のように鋭い目で物事を見る男。そんな印象が彼女の中に、静かに形を成し始めていた。
静かに息を整えてから、ルナリスは言葉を紡ぎ始めた。
「現在、我が祖国ノクティリカには、深刻な問題が生じています」
その一言で、部屋の空気がわずかに引き締まった。
ルナリスは瞳を伏せ、短く一呼吸置いてから続けた。
「私たちの国は、豊かな鉱脈を持ちながらも、水と食の自給には乏しい国です。これまでもウォルフワーズの西部水源を通じ、水を分けていただいてきました」
一瞬だけヴァルクの反応をうかがうように目を上げる。彼は表情を崩さず、ただ静かに耳を傾けている。
「ですが、最近、その水に異常が見つかりました。都市へと運ばれる水に、水質の劣化――明らかな“汚染”の兆候が出ており、すでにノクティリカ国内では、魔道上水路を用いた水の供給を停止しております」
事実を淡々と述べる声の奥に、わずかな緊張がにじむ。
言葉は抑制されていたが、その内容は重く、深い。
「我が国の乏しい水源だけでは、大地どころか、人々さえも潤すことはできません。そしてそれは、やがて国そのものを枯らしてしまうでしょう」
ルナリスは拳を膝の上でそっと握った。口にするたび、その危機が現実味を増してゆくのを感じる。
彼女は真っ直ぐにヴァルクを見つめると、ゆっくりと頭を下げる。美しい金糸の髪が床に流れ落ちるのも構わずに、深く。
「どうか……どうかこの地の水源を、私どもにお貸し願えませんでしょうか」
それが、無茶な願いだとは理解している。厚かましい願いだとも。
それでも彼女には、祖国には、どうしても必要なものなのだ。命をつなぐためにも。
「もちろん、ただというわけにはいきません。対価も、協定も必要でしょう。そのために、我々はこの地を訪れました。皆さまと歩み寄るために」
語り終えたルナリスに、ヴァルクはしばし沈黙を置いた。
「なるほど、な」
沈黙ののち、ヴァルクは気だるげに腕を伸ばし、大きく背中を反らせた。褐色の肌に走る筋肉の稜線が、艶やかに浮かび上がる。
「……だがよ」
彼はぐっと腰を落ち着け、鋭い眼差しをルナリスに向けた。
その口元には、笑みとも侮蔑ともつかぬ薄い笑みが浮かんでいる。
「そんな重要な話を、なんであんたのような女がしてるんだ?」
咄嗟に表情は動かさなかったが、ルナリスの視線に、ごく微細な揺らぎが走った。
侮られているのだろうか。そんな考えが、頭をよぎる。
しかし、ヴァルクはすぐに続きを口にした。
「……あんたを侮ってるわけじゃねぇ。ノクティリカの五大鉱脈家、その中でもアイオライト家の名は、ここでも耳にしてる。使者としては、十分すぎる看板だ」
言いながら、ヴァルクは視線を鋭く細めた。
「俺が知りたいのは……あんた自身の本音だ。どうしてこの交渉の場に立ってるのか。なぜ命を賭けてまで、この地へやって来たのか。その、あんた自身の答えだよ」
胸の内を見透かすようなその問いかけに、ルナリスはそっとまぶたを伏せた。
逃げ道を探すような言葉を並べることもできた。だが、それはこの男には通じないだろう。
だからこそ、ルナリスはゆっくりと口を開いた。
「……私は、魔力を持ちません」
ぱちり、と囲炉裏の火が爆ぜる。
ヴァルクは表情を変えず、ただ黙って聞いていた。リヒトも、目を伏せたまま動かない。
「ノクティリカでは、それがどれほど大きな意味を持つか……あなたもご存知でしょう」
ルナリスの声は淡々としていたが、その裏には、言葉では語りきれない痛みがにじんでいた。
かの国において、魔力は血の証であり、存在の証明でもある。魔力を持たぬ者は、時に欠けた人間と見なされ、家柄や資産がどれほどあろうとも、地域によっては平然と差別される。
魔力を持たない子どもは「不完全な人間」として排斥されたり、家族から遠ざけられる例も珍しくはなかった。
「だが……あんたは、愛されて育ったように見える」
その言葉に、ルナリスは小さく息を呑んだ。
ヴァルクの声にはからかいも同情もなかった。ただ事実を見抜いた者の、率直な感想だった。
「……家族は、私を娘として公に認めてくれました。そしてアイオライト家の名が、私を守る盾となりました。けれどその裏では、陰でこう言われていました――“魔力も持たぬのに、なぜあの家にいられるのか”と」
それでも、家族は変わらなかった。
両親も、兄も、屋敷の使用人たちさえも、ルナリスをありのままに受け入れ、当たり前のようにその手を取ってくれた。
それは、彼女にとって本当に幸せなことだった。
自分は恵まれていたのだと、心から実感するようになったのは社交界に出るようになってからだ。
他家の視線、噂、冷笑。それらを受け初めて、自分の幸せが、決して当たり前ではなかったのだと知った。
古来より、ノクティリカにおいて魔力とは、星から齎された力とされてきた。煌々と空を飾るそれは、祝福の証であり、人々に宿り導く光であると。
対して、月はただ静かに浮かぶだけの、満ちては欠けてゆく不完全な存在とも言われた。
彼女に与えられた「月の宝玉」という名には、そんな皮肉めいた意味も込められているのだという。
言いながらも、ルナリスはその記憶に呑まれそうになる自分を、奥歯を噛み締めて押しとどめる。
しばしの間、沈黙が落ちる。壁のわずかな隙間から夜風が吹き込み、囲炉裏の火を揺らす。
それと同時に、リヒトがほんのわずかに顔を上げた。伏せられていた睫毛の奥から、鮮やかな緑の瞳がルナリスを移す。
声をかけたい衝動があったのかもしれない。けれど、それを遮るように、彼は再び静かに目を伏せた。
「あなたの仰る通り、私は家族に愛されて育ちました」
凛としたルナリスの声が響く。
「人々のため、国のため――その思いに嘘はありません。しかし私は、なによりも、私を愛してくれた家族のために、ここへ来たのです」
その瞳は、まっすぐにヴァルクを見据えていた。
たとえ幾重にも張り巡らされた言葉の網に絡めとられても、この誇りだけは譲らないという意志が、そこにはあった。
「月の宝玉」などと呼ばれた。
魔力もない娘にふさわしいと、皮肉混じりに語られることもあった。
星々のように輝く力を持たず、ただ静かに満ち欠けを繰り返す月。何も生まぬもの。ただそこにあるだけのもの。
だが今――その名は、ルナリスという人間の核を映し出す言葉となっていた。
傷つきながらも己を曲げず、闇夜の中で光を宿す月のように。
誰かの温もりを受けてはじめて輝けるその在り方が、彼女の誇りであり、強さだった。




