16話 風渡る民②
その声にいち早く反応したのは、ゼファーだった。
牙を剝き、低い唸り声をあげる狼に、男は「怖い、怖い」と両手を上げて見せる。
敵意はない、という仕草ではあったが、誰ひとりとして警戒を解こうとはしない。
それでも彼は意に介した様子もなく、ひらりと岩の上から舞い降りた。
複雑に編み込まれた銀の髪が、踊るように揺れる。
軽やかな着地とともに姿を現した男は、旅装に近い軽装ながらも、どこか威圧感を伴っていた。胸元から下げられているのは、大鷲を模した精巧な木彫りの紋章。そして褐色の肌に引き締まった体躯、獣のようなしなやかな動き。そのすべてが只者ではないと物語っている。
にやり、と口元を吊り上げ、男は軽薄そうな口調でゼファーに言った。
「そろそろ、そいつを放してやっちゃくれねぇか。悪気は無ぇんだ。……まぁ、ちょっと短気なヤツだがな」
ゼファーの鋭い眼光が男を睨みつけたあと、リヒトへと移る。
リヒトもまた、落ち着いた様子でうなずいた。
「放してやってくれ。こちらも、彼らの大切な友人を傷付けるつもりはない」
そう言いながら、ゼファーの首元をやさしく撫でて宥める。
「彼らの友人、って……?」
「この大鷲のこと。ベルク族は、鷲を友とする民だ」
「えっ!? じゃあ、この人は……」
「ベルク族だ。それも、おそらく相当名のある人物だと思う」
リヒトは護衛の騎士たちを制すると、まっすぐ男の前に歩み出た。
その振る舞いには気品と威厳が宿り、まさしく王家の者にふさわしい。ルナリスは静かに一歩下がり、頭を垂れた。騎士たちもまた、自然と姿勢を正す。
「私は、ウォルフワーズ国第三王子、リヒテンダルト・フォン・ウォルフワーズ。此度の視察団の一員として、この地を訪れた。あなたはベルク族の方とお見受けするが……」
リヒトは、はっきりとした声音で名乗りを上げた。
そして、ようやく解放されて羽繕いを始めた大鷲に一瞥をくれた後、視線を男へ戻す。
「もし我らに非礼があったのなら、謝罪したい」
その言葉には曖昧さがなかった。目を逸らさず、まっすぐ相手を見据える。
男は数度まばたきをし、やがてふっと口元を綻ばせた。
「ほぉん……? 王子様がこんな最前線にとはね。しかも、その風格――なるほど、噂はあてにならねぇってわけだ」
胸に拳を当てると、軽く頭を下げる。
「俺の名はヴァルク。ベルク族をまとめてる族長ってやつだ。……こっちこそ、急に空から押しかけちまって、悪かったな」
ヴァルクと名乗ったその男には、飄々とした中に、不思議と人を惹きつける何かがあった。
風を纏うかのような身のこなし、そして背後に漂う、大地を束ねる者ならではの圧。
顔を上げたルナリスは、目の前の男を思わずまじまじと見つめた。
族長、つまり交渉相手の長が、まさかこんな風に現れるとは思ってもみなかった。
ふと、視線が合う。不躾だったかもしれないと、ルナリスは誤魔化すように小さく笑みを浮かべる。
「お初にお目にかかります。ノクティリカより参りました、ルナリス・アイオライトと申します」
優雅な所作で一礼し、「この度は――」と続けようとした、その時だった。
「う……美しい……!」
ヴァルクはまるで雷に打たれたかのような顔をして、たっぷり数秒間、その場で動きを止めた。
ベルク族の定住地は、草原を一望できる小高い岩山の頂上に築かれていた。
ひとつしかない入口の手前には、切り立った岸壁の谷が口を開けており、自然に削れた巨大な岩が一本、橋のように渡されている。
小枝を組んだ低い柵に囲まれた村は、遊牧と共にある民族らしく、どこか仮設めいた印象を受ける。しかし、風よけの石積みや厚く編まれた毛皮の覆いには、過酷な自然と折り合いをつけながら生きてきた知恵が宿っていた。
ひときわ高台にある岩棚には、木材で組んだ鷲舎がいくつも並んでいる。中からは甲高い鳴き声が聞こえ、白くふわふわとした雛たちが羽をばたつかせていた。
ベルク族では、鷲の雛が孵るとそれを家族の一員として育てる。やがて羽ばたき、狩りの相棒として草原を駆ける時期が来ると、族人とともに獲物を追い、空から地を見下ろしながら生きる。季節を二巡り共に過ごしたのち、鷲は自然に返される。だが彼らは去るのではなく、次の雛を託しに戻ってくるのだという。
そうして、鳥と人との絆は何世代にもわたり連なってきた。
日が暮れる頃、村の中心にある広場には大きな焚き火が灯され、宴の準備が始まっていた。男たちは輪になり、羊をまるごと火にくべて、ゆっくりと回しながら焼いている。香ばしい煙が夜空へと立ちのぼり、乳を発酵させて作った濃厚な酒が次々に振る舞われていた。
子どもたちはあちこちで駆け回り、時折笑い声を上げながら転げ合っている。女性たちは少し離れた家の影からその様子を見守っており、ときおりクスクスと笑っていた。
焚き火の傍らに置かれた毛皮の敷物に、ルナリスとリヒトは並んで腰を下ろしていた。その背後には、ゼファーがまるで影のように静かに身を横たえている。リヒトが体を傾けるたび、黒狼の長い尾がぱさりと動き、足元をやんわりと撫でた。まるで「調子に乗るな」とでも言いたげな仕草だったが、リヒトはどこ吹く風とばかりに、何度もじゃれるように体重を預ける。
そんな彼に、ゼファーは小さく鼻を鳴らしては、仕方なく受け入れていた。
ルナリスはちらとその様子を見て、ひそかに微笑む。
(ずっと探していたのは、彼だったんだ)
リヒトが待っていたもの、その正体がようやく分かった。ここへ来るまでの道中、彼はいつも誰かを探していた。ずっと聞けずにいたが、あれはゼファーを待っていたのだろう。
(よかった……)
何に対してそう思ったのか、自分でもよく分からない。ただ、喉につかえていた何かが、するりと溶けていくように消えていた。
気が緩んだルナリスは差し出された酒盃を、ひょいと掴んで勢いよく煽った。強い酒だが、喉の奥が焼けるような刺激すら心地いい。もともと酒には強い体質だった。焚き火の熱と、村の賑わいと、遠くで鳴く鷲の声。すべてが胸を満たすようだった。
一方のリヒトはというと、隣で盃を手にしたまま、ちびちびと中身を舐めるように飲んでいた。そして目線の端でルナリスの飲みっぷりを見ては、明らかにハラハラしている。ひと息で三杯目に突入したときなど、喉の奥で小さく「えぇ……」と呟いたほどだ。
さらに、ルナリスの酒豪ぶりに気を良くしたのか、焚き火の反対側から歩いてきたヴァルクが無作法に彼女の横へ腰を下ろした。
酒臭い息を吐きながら、肩を寄せる。
「よっ、姉ちゃん。いい飲みっぷりしてんじゃねぇか。どうだい? このまま俺の嫁に――」
ぱしん。
言葉の途中で、ヴァルクの膝にゼファーの尾が鞭のようにしなる。勢いよく跳ね上げられ、彼は情けない声をあげて尻もちをついた。胸元に下がる鷲の紋章が、合わせて揺れる。代々族長にのみ受け継がれる、ヴァルク族の誇りを表したものだという。
「……手厳しいねぇ、お前さん」
言いながら尻を擦る姿には、誇り高さなど見受けられない。そこにあるのは、どことなく情けない、けれど憎めない愛嬌を持った男の姿だけだ。
ヴァルクは苦笑混じりにゼファーを見やったが、狼はぴくりとも動かない。ただ、主の背後に身を伏せたまま、金の双眸をわずかに細めているだけだった。
その様子を見て、ルナリスはくすりと笑う。目元に少しだけ朱を差して、杯の中身をひとくちすする。
平然としたその笑みに、リヒトはちらと視線を向けた。
(冗談だと分かってる。分かってる、けど)
身体の奥に、火酒にも似た熱がちらりと灯った。ヴァルクの軽口に狼が反応したことに安心する一方で、ルナリスの笑顔にもどかしさを覚えてしまう自分がいる。
(ルナリスは笑ってる。ゼファーもちゃんと守ってくれてる。なのに……なんだ、この感情)
目の前でやり取りされる軽妙な掛け合いに、入り込む余地のなさを感じる。それが、かすかに胸をかき乱した。
けれど表情は崩さず、あくまで静かに、杯の縁を指でなぞる。
――どうして、自分はこんなにも落ち着かないのだろう。
「ま、今日は宴を十分に楽しめよ。明日になったら村を案内してやる」
ヴァルクが酒器を掲げながら言った。声は飄々としているのに、不思議と人を引き込む力がある。
ルナリスは酒を置き、ゆっくりと身を起こした。
「ありがとう。でも、できれば早いうちに時間を頂きたいわ。大切な話があるの」
その声に、宴の熱が一瞬だけ遠のいたような気がした。だが、ヴァルクはすぐに表情を崩して首を横に振る。
「無理だな。うちには、旅人を三夜もてなす習わしがある。もてなしの前に話を持ち込むのは、昔から好かれねぇ」
「三夜も……?」
驚いたように聞き返すと、ヴァルクは愉快そうに笑いながら酒をあおった。
「そう、三夜だ。安心しろ、たっぷり食わせて飲ませて、骨の髄までくつろがせてやる。そのあとなら、いくらでも話をきいてやるよ――宴の後に、ゆっくりとな」
最後の一言に、ルナリスはふと眉をひそめた。妙に含みを持たせたその言い方に、軽口の裏にある何かを感じ取ってしまう。
「……お酒の入った頭で、まともな話し合いができるの?」
「……大事な話をするときは、闇に紛れろって言うだろ」
「そんな格言、はじめて聞いたわ」
ヴァルクはにやりと笑って、肩をすくめた。
「それに、俺は酒で判断を鈍らせるほどヤワじゃない。あんたも、な?」
「……」
挑発するような眼差しに、ルナリスは言葉を呑んだ。
「そっちの王子さまは分からんけどな」
言い添えて、ヴァルクの視線がリヒトに向けられる。
炎の影に照らされたその横顔は、あいかわらず涼しげだった。けれど隣にいるルナリスには、微かに熱のような気配が伝わってくる。
ルナリスはそっとリヒトの横顔を見た。緑のまなざしの奥に、言葉にならない思いが揺れている。
「じゃあな、お二人さん。せいぜい飲みすぎんなよ」
ヴァルクはそう言い残すと、ひらりと身を翻して焚火の輪から離れていった。彼の背には、風のようなきまぐれと、鷲のような自由が宿っていた。




