15話 風渡る民①
朝日が高く昇り、岩山の影をゆっくりと飲みこんでいく。
岩壁に沿って切り拓かれた獣道を、ルナリスたちは慎重に進んでいた。
足元には崩れやすい砂利。蹄の音が岩肌に反響し、乾いた空気に吸い込まれていく。
狭く険しい道は、乗馬には向かない。手綱を握る手に汗をにじませながら、ルナリスは一歩一歩、確かめるように歩いた。
そんな彼女を支えるように付き添っているのは、昨晩も介抱してくれた女性騎士――ラセル。世話役を買って出てくれた彼女は、この国の出身ながらノクティリカとも浅からぬ縁があるという。
ルナリスを案じてくれるのは、彼女だけではなかった。
一行の護衛たちは皆、回復を喜び、労わりの言葉を惜しまなかった。昨夜の狩りを担当した騎士に至っては、「野蛮な光景を見せてしまった」と謝罪され、かえって申し訳ない気持ちになったほどだ。
食料の調達は、優先すべき大切な任務。
それが「前世の死」を思い出すきっかけにはなったものの、あの光景自体に嫌悪を抱いたわけではない。むしろ、それもまた必要な営みなのだと、ルナリスは理解していた。
だから、
「私こそ、皆さまのお手を煩わせてしまって申し訳ありません。でも……すっかりよくなりました。お肉のおかげかもしれませんわね」
朝食を終えた後、仕留めた肉の味を噛み締めながらそう口にすると、騎士は目尻を下げて、感極まったように頷いた。
そのやり取りを、少し離れた場所で見ていたリヒトが、ふっと笑みを浮かべる。
ルナリスがそちらに目を向けると、彼と自然に視線が重なった。
昨夜のことは、言葉にしていない。だが、目が合うたびに心の奥で何かが呼応するのを、ルナリスは感じていた。
一行は足場の悪い道をひたすら進み続け、やがて最後の坂を登りきる。
吹き抜ける風を全身で受けながら、ルナリスは感嘆の息をもらした。
「すごい……!」
視界いっぱいに広がるのは、遮るもののない地平線。風に揺れる青々とした草が、波のようにうねりながら彼方まで続いている。
それは、まさに空と草原の境界だった。
「まるで……風が生きてるみたい」
リヒトが隣に並び、同じ方向を見つめる。
ルナリスの胸の奥が、静かに高鳴った。
「どう? この国の景色は」
「圧倒されるわ。本当にこの国は、緑が豊かなのね……ノクティリカとは、比べ物にならないくらい。こんなに広い地平線、はじめて見たわ」
「俺は、いつかノクティリカにも行ってみたいけどな」
リヒトの言葉に、ルナリスは目を見開いた。
それは、故郷に向けられる純粋な好奇心と、彼自身の意志が宿る声音だった。
ノクティリカ。彼女の生まれ育った、輝晶の国。
魔力を持たぬ者にとっては、決して生きやすいとはいえない場所。
それでも、そこには家族がいて、思い出があって。
あの地で育まれたもの全てが、今の自分の核になっていることを、ルナリスは否定できなかった。
「……あのね」
呟くように言葉が漏れる。
「私にとってノクティリカは、愛おしいのに、少しだけ息苦しいの。生まれた土地なのに、肌に合わない気がしてしまうことがあるのよ。……でも、それでも……私、あの国が好きなの」
あの鉱山の空気。散りばめられた宝石の煌めき。
魔力という名の光に縛られた世界。
昼の青空よりも、夜の闇が長い国。
「だから……あなたが、そこへ行きたいって言ってくれて、なんだか嬉しい」
言いながら、ほんの少しだけ、視線を逸らす。
心の中で暖かい火が灯ったような感覚に、気づいてしまいそうだったから。
「そっか」
リヒトが、短く優しい声で返す。
それは、彼なりの理解と肯定を含んだ一言だった。
言葉の少なさに反して、しっかりと心の芯に届く響きに、ルナリスの顔がほんのりと熱を帯びる。
今までとは何かが違う熱。しかし決して不快ではなく、どこかこそばゆくて、自然と頬が緩むような。
そして二人がふっと笑い合った次の瞬間、空気がざわめき、足元に大きな影が落ちる。
誰かの叫びが、乾いた空気を震わせ、岩山にこだました。
「――頭上だ!」
直後、鋭い金切り声が、空を裂くかのように響き渡る。
巨大な鷲が、低く旋回しながら一行の頭上をかすめて飛んできた。その威圧的な羽ばたきに、誰もが目を瞠る。
鷲は風に乗って空高く消えたかと思うと、またすぐに猛然と急降下してくる。
風圧が地面の草をなぎ払い、岩の斜面にいた者たちが一斉に身を伏せた。
ルナリスも思わずしゃがみこむ。
反射的に手を伸ばしたリヒトが、彼女を守るようにその肩を抱え込んだ。
そしてその爪が、彼の皮膚を引き裂こうとしたその時――。
唸り声をあげ飛び込んだもうひとつの影が、鷲の凶爪を阻むかのように、体当たりしながら現れた。
「ゼファー……!」
リヒトが叫ぶ。
それは、黒い毛並みを持つ狼だった。
空中で翻った黒い狼――ゼファーは、岩壁を蹴って勢いを乗せると、目にもとまらぬ速さで宙を駆け、大鷲へと一直線に飛び掛かった。
大鷲も咄嗟に応じる。甲高い鳴き声とともに、鋭い爪を突き出し迎撃に転じるが、その一瞬を見切っていたゼファーは身をひねり、刃のような爪の軌道を僅かに外れる。そして、太い尾をヒュンと鳴らし、大鷲へとたたきつけた。
ギャアアアッ――!
劈くような悲鳴をあげて、体勢を崩された鷲が地面へと墜ちる。鋭い瞳は、その隙を見逃しはしなかった。
まるで風を滑るような滑らかな軌道で黒い狼は宙に舞い、次の瞬間、大鷲の背を叩きつけるように押し倒した。
ドン、と地に響く衝撃。乾いた大地に爪が食い込み、鷲の翼が暴れ狂う。羽が風を巻き、砂利が舞い上がるが、ゼファーは微動だにしない。ぶれない四肢で、巨大な猛禽を完全に押さえ込んでいた。
鷲が鋭く嘴を突き出すが、ゼファーはわずかに顔を逸らし、逆に喉元へと牙を寄せる。そこでようやく力の差を悟った大鷲が、大人しくなった。
(……綺麗な狼)
ルナリスは、繰り広げられた戦いに目を奪われていた。
黒曜石のごとく艶のある毛並み。筋肉の収縮が生む力の奔流。
美しさもさることながら、その体のしなやかさは、どんな絵画にも描けないほどだ。
一切の無駄がない。躊躇もない。
しかし殺すためでもなく、制するための精密な動きだった。
鳴き声と風音が止む。
緊張の余韻が、岩場全体に満ちる。
そして、
「そいつを躱すなんて、たいした狼だな」
どこか楽しげな声が、岩陰から響いた。




