14話 夢の終わる夜③
薄くかすんだ視界のなかで、天幕の揺らぎが見えた。
いや、揺らいでいるのは炎だ。簡素なランプに灯るその光は、ゆらゆらと頼りなく、夜の闇を照らしていた。
「……ルナリス様……!」
呼ばれた名に、ふと思考が停止する。
ルナリス――ああ、それは私の名だ。
たっぷりと時間をかけて、その事実を飲み込む。
「気がつかれたのですね……よかった……」
声の主は女性だった。身代わりとして残してきた侍女の代わりに、世話役を申し出てくれた女性の騎士。意志の強そうな彼女の口から、安堵の吐息がこぼれる。
「わたし、は……」
視線を巡らせようと頭を動かすと、額から濡れた布がずれ落ちた。寝かされている様子を考えるに、自分は気を失っていたのだろう。
「……ごめんなさい。迷惑をかけたみたいね」
「そんなこと、お気になさらずに。今、殿下をお呼びいたします」
彼女はルナリスの弱々しい声にそう答えると、慌ただしく天幕を後にする。
外から、「殿下、殿下! ルナリス様が目を覚まされましたよ!」という声が聞こえる。続いて、胸を撫でおろすような騎士たちの声も。
その中から、ひときわ急いだ足音が響く。そして、すぐ後には入口が開かれ、リヒトが息を切らしたまま入ってきた。
手には水の張られた桶。その中に、真新しい布が浸されている。リヒトはぞんざいに桶を置くと、ルナリスの側に駆け寄ってきた。
「ねえさ――ルナリス!」
一瞬呼びかかった音に、ルナリスは息を呑む。
引き戻されそうだった。前世に。もう戻れない、あの日々に。
「良かった、目を覚ましてくれて。どこか苦しいところは? 怪我はない?」
こちらを覗き込む緑の瞳が、労りの色に満ちている。眉尻を下げた表情は、年相応の幼さを感じさせ、どこか頼りなさげだ。
ルナリスはゆっくり手を伸ばす。何も掴めない虚空に、ではなく、しっかりとリヒトに向かって。
「り、と……リヒト……」
唇が震える。
もう大丈夫、と伝えたくとも、言葉にならない。
リヒトは静かにその手を取ると、背後に控えた女性騎士に向かって告げた。
「ちょっと、席を外してくれるかな?」
柔らかなようで、しかし有無を言わさぬその声に、騎士は一礼してその場から去っていった。
入口の布が閉じられ、ふたたび静寂が満ちる。
揺らぐランプの灯りが、白い幕にふたつ分の影を映し出している。まるで昔見た、映画のスクリーンのように。
音はない。セリフも、字幕もない。ただ、光と影だけが、夜の静けさに浮かんでいた。
「大丈夫だよ、姉さん」
リヒトの指が、頬を拭う。
ルナリスはそこではじめて、涙を流していることに気が付いた。
外から、騎士たちの話し声がかすかに聞こえる。
ぱちり、ぱちりと、焚火がはぜる音も混じっていた。誰かが鍋をかき混ぜるような金属の音。馬が鼻を鳴らす気配。
夜はまだ深く、寒気を含んだ風が張られた布を小さく揺らす。
ふたりきりの天幕は静寂に包まれていた。まるで世界から切り離されたように、ひっそりと。
「……私、思い出したの……」
ぽつりと、ルナリスが呟いた。
横たわったまま、彼女は静かに視線を動かす。頼りなく揺れる火の光を見つめながら、その瞳は少しずつ遠くを捜すように、どこか焦点を失っていった。
そして、そのまなざしがリヒトへと向いたとき、彼ははっとした。
迷子のように戸惑う瞳が、そこにあった。
「何を……?」
思わず問い返したリヒトに、ルナリスはほんの少し口角を震わせた。笑おうとしたのかもしれない。けれど、その表情はすぐにほどけて、影だけを落とす。
「前の世界で、私が……理沙が、死んだ日のこと。どうしてずっと、忘れていたんだろう。思い出したくないから、無意識に遠ざけてたのかな……」
彼女の声はどこまでも静かだった。
怒りも、嘆きさえもない、ただ感情のない音だけが流れる。
「ほんの一瞬だった。階段から足を滑らせて……目の前が真っ暗になって、それで……」
リヒトは言葉を失った。
その記憶は、彼にとってもまた、どうしても触れることのできない場所だったからだ。
姉の死。
あの日唐突に訪れた、その喪失を、いま彼女の口から突きつけられている。
「……覚えてたのは、どう生きてきたかってことだけだったの。あの世界で、あなたとどう過ごして、どんなふうに頑張って、何を望んでたのか……。でも、あの日のことだけ、ぽっかり抜けてて……」
リヒトはひそかに拳を握った。聞きたくない。耳を塞いで、逃げ出したい。
だが、こうも思った。
今、この事実を受け入れなければ、どこにも進めない。自分も、そしてきっと、彼女も。
ふたつの記憶の狭間で、ずっと迷い続けている彼女を救えるのは、自分だけなのだ――と。
だから、
「……話してくれて、ありがとう」
その一言に、彼女と向き合う覚悟を込めた。
しばらくたって、身じろぎする気配に、リヒトは目を向ける。
「起きられる?」
「ええ、少しだけ」
返された声はまだかすれていた。リヒトは彼女に手を貸すと、細い背にそっと腕を回す。
ルナリスの身体を覆っていた掛け布が、さらさらと滑る。と同時に、その胸元を飾っていたリボンがほどけ落ちた。いくつかの留め具も外れていたのは、処置のためだろう。驚いた様子もなく彼女は無意識に布を整えようとしたが、リヒトの視線が止まったのは別のところだった。
首もとに、ひときわ冴えた青を宿したペンダント。
小粒の宝石は、深い群青から淡い紫へと色彩を変え、どこか儚げに揺れていた。
アイオライト――方向によって色を変える、不思議な石。彼女の家名を持つ石。かつて、リヒトが彼女の前世に贈った、誕生日のペンダントと酷似していた。
「それ……」
思わず声が漏れた。
ルナリスはその視線に気づき、胸もとに手を当てる。彼女の唇が、やわらかくほころんだ。
「……母がくれたの。私が生まれた日に」
菫色の輝きを宿すそのペンダントは、確かに前世のものとよく似ている。
しかし、同じではない。
「理人」が贈ったものよりも青みかかっているし、なにより、あのペンダントは彼女と共にあるはずだ。姉の、亡骸とともに。
「不思議ね」
ルナリスが囁くように言った。
「昔、あなたから贈られたものにそっくり」
ルナリスの横顔が、記憶の中の姉と重なる。姿は違うはずなのに、リヒトの目の前には、たしかに彼女がいた。家族として、忘れがたい日々を過ごした、「理沙」という女性が。
リヒトは唇を震わせる。
「覚えていたんだ……」
その声に、込み上げる切なさが零れてしまわぬよう、必死に心を抑えながら。
「私ね……このペンダントが、あなたとの出会いを繋いでくれたのかもしれない。そんな気がしてるの」
そう言って、ルナリスはふわりと笑った。涙を湛えた目で、それでも微笑もうとする姿に、胸がしめつけられる。記憶が、想いが、感情が溢れだしそうになる。
「もう少しだけ……」
彼女が呟く。
「昔みたいに、そばにいてくれる?」
リヒトは何も言わず、ただ彼女を抱きしめた。
細い肩が腕の中に収まる。ペンダントがかすかに胸元で揺れた。
ルナリスは一瞬だけためらったが、やがて彼の胸元に顔をうずめる。嗚咽を殺すように、小さく震えながら。
彼女は、もう知っている。
前世の自分は、もういないのだと。
そしてリヒトも、痛いほど理解していた。
愛した姉はもういない。
いま目の前に存在するのは、ルナリスとして生まれ育った、新しい人生を歩む一人の人間なのだと。
けれど、この夜だけは――優しい思い出に包まれて、ただ時間だけが過ぎてほしい。
そんなささやかな願いを抱きながら、姉弟は、たったふたりきりで身を寄せ合った。




