13話 夢の終わる夜②
――姉さん。
すらり、と静かに襖が開く。
耳に馴染まぬ呼び声が、静寂に溶けていった。
それが誰を指す言葉なのか考えることもなく、理沙はただその場に座り込んでいた。
立ちのぼる線香の煙が、開かれた空間に向かって流れ、ふっと消えていく。
糸のような煙を追って、ゆっくり視線を移す。
目の前に、少年が立っていた。
所在なさげに、襖の前に立ち尽くしている。まるで、自分の存在がここにあってよいのかどうか、確信が持てないかのように。
細くて、若くて、頼りなげな顔。
けれど、その目だけが不思議に印象的だった。
何かを深く見透かすような、あるいは言葉より先に感じ取るような、そんな透明な光を宿していた。
「姉さん」
もう一度。今度は、確かにその声が耳に届く。
……ねえさん?
心の奥で、かすかな疑問が浮かぶ。けれど、次の瞬間には。
――おとうと、だ。この子は。
違和感も、疑問も、すべて消えていた。
まるではじめから、そうであったかのように。
母の葬儀が終わったばかりだった。
家族だけで済ませた、小さな、ほんとうに小さな別れの挨拶。
特別なことはなにもしていない。
ただ、学校へ行くように。買い物へ出かけるように。
同じように火葬場へ向かい、母を荼毘に付した。
そして今、いつもと同じように向かい合っている。欠片となってしまった母と。
「なにか食べた? 腹……減ってるんじゃないのか?」
彼は――弟の理人は、そう言いながらひざを折った。
古びた畳がきしんで、微かな音を立てる。
「り、と……理人。あんたこそ、少し休みなさい」
確かめるように弟の名を繰り返し、理沙は笑みを向けた。
今、彼を安心させられるのは、姉である自分しかいないのだから。
だが、理人は首を振ると、
「休んだ方がいいのは、姉さんだよ。クマも酷い……寝てないのか?」
「だって、私しかいないし……私が、やらないと……」
「……ごめん。俺、なんにも分からなくて」
理人は包み込むようにそっと、理沙の手をとった。
どうして謝るのだろう。
この子は弟で、自分は姉で。
だから、気丈でいなければならないのは、自分で――。
それなのに。
触れた手の温もりをたしかに感じた瞬間。
一粒の涙が、静かにこぼれ落ちた。
二人の暮らしは、慎ましくも穏やかだった。
炊きたての白米に、インスタントの味噌汁。
乾いた洗濯物を黙々と畳む夕暮れ。
ひとつの炬燵に足を入れ、テレビの音をただ聞いていた夜。
理沙は、笑っていた。声を上げてではなく、少しだけ口元を緩めるような、小さな笑みで。
理人は、そんな姉の隣に座っていた。距離は近いのに、決して踏み込みすぎず、ただ隣にいることを選ぶように。
いつの間にか、朝の食卓に「おはよう」が戻ってきた。
いつの間にか、郵便受けを覗きに行く足取りが軽くなっていた。
そして、いつの間にか――理沙は気づかぬうちに、ぽっかりと空いた心の穴を、弟の存在で埋めていた。
誰よりも近くにいてくれる「弟」に安堵して。
やがて、部屋の隅に置かれた母の遺影を前にする時間は、徐々に短くなっていった。
喪失は、まだ胸の奥に残っている。抜けない棘のように。
それでも日々は続く。季節は変わっていく。
そうして理沙の世界には、いつの間にか、彼が深く根を下ろしていたのだった。
だが。
終わりとは、いつも唐突に訪れる。
その夜は、いつもより空気が澄んでいた。
吐く息が白く滲み、街灯の明かりが遠くまで届いて見えた。
時折吹く風は冷たく、マフラーを何度も巻き直す。吸い込んだ空気が喉を刺して、理沙は何度か咳き込んだ。
体が重い、と感じたのは、数日前からだった。
けれど、それが疲労のせいか、寒さのせいか、理沙には分からなかった。ただ、歩みを止めるわけにはいかなかった。立ち止まってしまったら、動けなくなりそうで。
(……リト、もう帰ってるかな)
マフラーの奥、指先が冷えきるのも構わず探ったのは、小さなペンダント。
二十歳の誕生日に理人が贈ってくれたものだった。銀色の細い円環の中央に、小さな菫色の石がはめ込まれている。
「アイオライト」と呼ばれる石らしい。
「姉さん、自分のことには無頓着だから。こういうの、ひとつは持っていてもいいんじゃないか、って」
そう言って渡してきたときの、少し照れたような表情が思い出される。以来、理沙はそれを一日たりとも手放したことがなかった。
連日、仕事は長引いた。
しかしどんなに遅くなっても、理人は必ず待っていてくれた。
家に帰ると、台所にはふたつ分の夕食が並び、ふたりで箸を持った。
笑ったり、黙ったり、テレビの話をしたり。ただそれだけの、あたたかい時間。
そんな日々が明日も続くのだと、理沙は信じていた。
駅前の信号を渡り、歩道橋を上る。
夜露で濡れた階段は、思ったより滑りやすくなっていた。
一段、二段と昇るうちに、視界が少し傾いたように思えた。
あっ、と思った瞬間には、体はもう、重力に逆らえずに。
足が滑る。
虚空へと伸ばした手は、何も掴まない。
視界がぐるりと反転して、空と街灯が逆さまに混ざり合う。
――そして、どこまでも深い静寂と、暗闇だけが訪れた。




