11話 旅のはじまり⑤
ルナリスの提案は、いたって明快だった。
別動隊を本隊に、とは、つまり「自分が少数の隊となって動き、ベルク族の村へ行く」ことに他ならない。単純で手っ取り早く、しかも一番確実な方法だ。
川の増水で橋は崩れ、馬車も人も通れない今、上流のつり橋を渡るには身軽な編成で進むしかない。安全な道を探して大所帯で迂回すれば、それだけ時間がかかる。だがベルク族は移動の早い遊牧民だ。のろのろしていれば、せっかく得た居場所の情報も、無駄になってしまう可能性がある。
「だから、私が行きます。これ以上、無駄な時間はかけられないもの」
そう言って、ルナリスは堂々と前を向いた。
意外だったのは、ウォルフワーズ側の反応だ。
彼らはルナリスの言葉に、拍子抜けするほどあっさりと、「承知いたしました」と頷いた。誰も驚かず、誰も止めずに。
リヒトなどは、少し笑いながら「そう言うと思った」と呟いたほどだ。ちなみに、彼は当たり前のように同行を決め、颯爽と準備に取り掛かっている。
この国の人間は無茶に慣れているのか、あるいはルナリス――というよりもリヒトに、信頼を寄せているのだろう。
だが、ノクティリカの人間はそうもいかない。
「そ、そんな無茶ですよ!」
小声で抗議したのは、侍女のサフィナだ。栗色の髪をまとめた彼女は、大きな瞳をさらに丸くして困惑した。
「抜け出したのがバレたら、大騒ぎになりますよ……!」
「だから、ばれないように行って戻ってくるわ」
あっさりと言い放つルナリスに、サフィナは絶句する。
「体調を崩して熱を出した、ってことにして。旅の疲れもあって、しばらく寝かせておきたい――そう言えば十分よ。あとはあなたが天幕の前に立って、私とやりとりするふりをしていて」
サフィナはため息をつきながらも、なお渋い顔をしていた。
「……もう、どうしてそういう策をすらすら出せるんですか。そういうの、“悪だくみ”って言うんですよ……」
「あら、勉強になるわ」
そうルナリスが応じると、侍女はさらに深いため息をついた。
荷物が少ない分、出発の支度は手早く整った。
必要最低限の物資を鞄に詰め込み、ルナリス自身は馬に乗りやすいようパンツスタイルに着替える。地味な色合いの乗馬服は、かえってしなやかな身体の線を浮き彫りにする。
「実はずっとやってみたかったの。ウォルフワーズでの乗馬」
鏡の前で、軽く腰を回して動きやすさを確かめながら、ルナリスはふっと笑った。ノクティリカでは決して許されなかった自由な格好――それが、今こうして当たり前のように叶っている。
もちろん、本気で騎乗するのは初めてに近い。ここまでの道中、暇を見つけてはリヒトに教わってはいたが、それもあくまで趣味の範囲内だった。長距離を馬に乗って移動するなど思いもしなかったが、ルナリスの心は経験したことのない旅に沸き立っていた。
「ルナリス様……本当に、気をつけてくださいね」
着替えを手伝ったサフィナは、まだ納得しきれない顔でルナリスを見つめている。
「ばれたら、どう責任取るつもりですか。というか、なんで私が変装まで……」
「だって、別動隊を見送る姿くらいは見せておかないと」
サフィナは今、ルナリスのドレスに身を包んでいた。
婚約者であるリヒトが別動隊で行動する以上、見送らないわけにはいかず、苦肉の策として変装という手段が選ばれた。
女性にしては背が高めなルナリスと、それよりもやや低いサフィナは、体型だけで言えば遠目には変わりない。胸は詰め物で誤魔化せるし、身長もヒールを履けばなんとかなる。髪はまとめているので、つば広帽子で隠せば十分だ。顔にしたって、わざわざ覗き込んでまで見てくる無礼な人間はいないだろう。
あとはリヒトがそれらしく、「行ってくるよ、ルナリス」と声をかければ、それで完了だ。
「だからって、どうして私なんですかぁ」
「あなた以上に適任がいないもの」
ルナリスがさらりと返すと、サフィナは口を開きかけて、何度目かになるため息を吐いた。長く吐き出されたその息には、心配や諦めといった感情が綯交ぜになっていた。
「……ああもう。わかりましたよ。こうなったら、あなたは引かないって分かってますから」
サフィナはようやく観念して頷く。そして、傍らの布包みから、あるものを取り出した。
「そういえば、これ。ちゃんと直しておきましたから」
差し出されたのは、深い菫色の石がきらめく、アイオライトのペンダント。
長年身に着けていた愛用品だが、この国に到着した直後、留め具が緩んでしまったのだ。
「ありがとう、サフィナ。……やっぱり器用ね。私じゃ、留め具ひとつ直せなかった」
ルナリスは手のひらでそっと石を受け取り、その仕上がりを確かめる。
サフィナの実家は、ノクティリカの都でも名の知れた装飾品工房だ。職人としての腕は確かで、彼女自身も幼い頃から細工の技術を叩き込まれている。対してルナリスは、針に糸を通すのもままならない――つまり、不器用だった。
「私はしばらくお側にいられませんから……どこかに引っかけたりしないでくださいね」
「そうね、気を付けるわ」
ルナリスはそう言うと、チェーンをそっと首にまわす。
服の下に隠すようにして、ペンダントを胸元へ滑り込ませると、石はひやりとした感触を残して肌になじんだ。
(お守り、なんて子どもっぽいけれど)
このペンダントは、不思議と心を落ち着かせてくれる。
母が、幼い頃に贈ってくれたものだ。特別な意味は語られなかったけれど、眠れぬ夜、そっと手に取るたび、優しく抱きしめられているような安心感を与えてくれた。
けれど。
胸の奥に、かすかに引っかかる感覚がある。
理由は分からない。ただ、このペンダントを見ていると、暖かくも切ない感情が、ふとした拍子に胸をよぎることがあるのだ。
――まるで、思い出しかけた夢の続きを、誰かがそっと引き戻していったような。
ルナリスは首もとのチェーンに軽く触れながら、静かに息を吸い込んだ。
「では、行ってくるわね」
「いってらっしゃいませ。……無事を祈っております」
見送るサフィナに向かって手を振ると、ルナリスは外套のフードを深々と被り、人目を盗むように歩き出した。




