10話 旅のはじまり④
数日かけて、使節団はベルク族の土地――西方の大草原へと足を踏み入れた。
ここに至るまでの道のりは平坦ではなく、いくつもの峠を越え、鬱蒼とした森を抜けねばならなかった。
ときに魔物が牙をむいて現れ、そのたびに護衛の騎士たちが剣を抜き、矢をつがえう。リヒトもまた、いち戦士として躊躇なく前線へ出た。
「……慣れているのね」
ルナリスは、彼が言葉少なに戦場を読み、必要な場へ迷いなく動く様子に感嘆していた。ひるまず恐れず、剣を握って駆ける姿は、もはや王子というより熟練の戦士だった。
だが。
休憩のときも、夜営のあいだも、彼の様子にはどこか落ち着きのないものがあった。
常に視線は動き、草むらや風の向きに反応するように、耳を澄ませては何かを探す仕草を繰り返している。
(……何を見ているの?)
ルナリスは問いかけるように首を傾げたが、当の本人は何事もないかのように振る舞っていた。
それでも、何日も道中を共に過ごしていると、そうした些細な違和感はむしろはっきりと見えてくる。
ふと、小さく呟いた声が耳に届いた。
「……遅いな」
誰に向けての言葉なのかは、彼女にはわからない。
その声はどこか寂しげにも、愛しげにも聞こえて、ルナリスの胸はひそかに波打つ。
「誰を待っているの?」という問いかけは喉元で止まり、結局、聞くことはなかった。答えを知るのが、怖かったのかもしれない。
そんな自分に気づいて、ルナリスは小さく息をつく。
(どうして、こんなにも気になるのかしら……)
近頃では、無意識のうちに彼の姿を目で追ってしまう。
声の調子、歩き方、ふとした表情。そのどれもが、懐かしい記憶を呼び覚ます。無邪気で、よく笑って、時々拗ねて――そんな弟の面影が、確かにそこにあるから。
けれど、いま目の前にいる彼は、あの頃のままではない。
背も伸び、肩幅も広く、剣を振るうたびにその体には迷いのない力が宿る。
前世の自分が知っていた弟より、遥かに逞しく、遠い存在に思えてしまう。
そしてなにより、自分自身も変わってしまった。
記憶とのずれを感じるたびに、過去のままではいられないのだと、寂しさがよぎる。
姉弟として築いた絆に揺らぎを感じ、不安を抱いてしまう。
だが。
何気ない会話の途中や、視線が交差した瞬間、ルナリスの胸には微かな熱が生まれる。
それは、家族としての愛しさとは少し違う、形容しがたい感情で――。
熱のようで、ざらりとした風のようで、肌の奥に残るようなむず痒さを伴って、彼女の心をかき乱す。
けれど、それを口にすることはできない。
まだ、彼をどう見ればいいのか、自分でもわからずにいるから。
(急に弟が婚約者になったんだもの。戸惑うなってほうが、無理だわ)
ルナリスはため息をつきつつ、馬車の窓に映る景色をぼんやりと眺めた。
ウォルフワーズの空は、そんな彼女の心とは裏腹に、雲ひとつなく澄み渡っている。
草原を渡る風はどこか湿っていて、濃密な緑の香りを運んできた。
三日ほど前から、この一帯は激しい雨に見舞われた。そんな噂を耳にしたのを、ふと思い出す。
その雨雲が去ったことに、ルナリスは安堵したものの、次なる問題が立ちはだかった。
「増水している……?」
濁流と化した川が響かせる、ごうごうとした音を目の前に、一行は成すすべなく立ち止まる。
豪雨の影響で水かさが増し、架かっていた木橋が途中から折れてしまったようだ。
慌てて馬車を降りたルナリスは、ぬかるみに足を取られそうになるが、咄嗟にリヒトが支えてくれる。
「この先にある定住地までは、川を越えないと行けません」
報告に来た騎士が、地図を示しながら説明する。
「ですが、もっと上流に吊り橋があります。そこなら、まだ無事かもしれません」
「となると、森を抜けて山道か……。人数を絞らないと無理そうだな」
リヒトが顎に手を置いて考える。思案する時の癖なのだ。
「橋を見に行く別動隊と、ここに残る本隊に分かれてみては」
「では、別動隊がベルク族に掛け合い、あちらの代表者をこの本隊へ連れてくると――?」
「いや、どうだろう。それは難しいかもしれない」
リヒトと騎士たちの間で意見が交わされる。
一方、ノクティリカ側の使節たちはルナリスを除き、すでに馬車へと戻っていた。
慣れぬ土地の判断は現地に任せるべきという考えかもしれないが、足を泥に汚しながら状況を打破しようとするリヒトたちの姿を見て、ルナリスはどうしてもその場を離れる気にはなれなかった。
なにより、この旅の目的には水源の交渉がある。祖国にとって命にも等しい水を得るために、自らが動かずしてどうするのか。
(まぁ……今はこの無関心ぶりがありがたいけれどね)
ルナリスはそう胸中で呟くと、一歩前へと足を踏み出した。
そしてそっと手を上げる。
「お話し中、失礼いたします」
鈴が鳴るように美しく、それでいて耳に届く凛とした声が、場を静めた。
「ベルク族の方に、お越しいただく必要はありません」
「しかし、そうなると交渉のほうが……」
「ええ。ですので、別動隊を“本隊”にしてしまえばよろしいのです」
にっこりと微笑むルナリスの姿には、有無を言わせぬ、不思議な圧があった。




