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第2話『賢者』

 ギルドの受付前に立ち、カンガエロは違和感を覚えていた。周囲を行き交う者たちの装いは、アテナイのどの階級とも異なっている。大剣を背負い、鎧に身を包んだ者。軽装で、得体の知れない道具を腰に下げた者。不思議な杖を手にし、ローブを纏った者。そして何より違和感を覚えたのは、彼らの眼差しだった。


「この者たちは奴隷なのですか?」


 カンガエロの問いに、受付の女性は一瞬、耳を疑うような表情を浮かべた。そして、困惑と同情が入り混じったような微妙な表情で答える。


「...申し訳ありませんが、そのようなお言葉は慎んでいただきたく。彼らは皆、自らの意志でギルドに所属する冒険者です。己の技能と判断で仕事を選び、それに見合った報酬を得る。それが、私どもギルドの在り方なのです」


 その説明に、今度はカンガエロが困惑の表情を浮かべた。


「私は...知を探求する者です。真理を追い求め、それを理解することこそが、私の使命なのです」


 カンガエロがそう告げると、受付の女性は何かを思い出したように目を輝かせた。


「では、『賢者』の職がお似合いかもしれません。賢者は知識を探求し、それを実践的な形で社会に還元する存在です。モンスターの生態研究、魔法理論の構築、新しい技術の開発...様々な形で、知恵が必要とされているのです」


 その説明を聞きながら、カンガエロの心に期待が芽生える。しかし同時に、違和感も残る。アテナイでの知とは、現実から距離を置いた純粋な思索であった。


 実践とは、どこか次元の低いものと考えられていた。アテナイの哲学において、真の知識とは不変の真理を探求することであり、日々変化する現実世界での実践は、そこから遠ざかる行為とされていたのだ。プラトンの「イデア」の考えがそうであったように、真実の世界は現実の向こう側にあると信じられていた。技術や技能は、その真実を歪める「似像」でしかないとされ、哲学者たちは実践を避け、純粋な思索にのみ価値を見出していたのである。


「部屋の中央へ」


 受付の女性が静かに指さす先には、床に刻まれた不思議な紋様があった。カンガエロは躊躇いながらもその上に立つ。

 女性が目を閉じ、何事かを詠唱し始めた。その瞬間、紋様が淡い光を放ち始める。カンガエロの体が、内側から熱を帯びていく―――。


「これが『英知の反響』という賢者の固有スキルです」受付の女性が説明を始める。「すべての魂の記憶が集う『叡智の書庫』にアクセスし、その知識を一時的に享受できる特殊な力です。ただし、人の魂の記憶に触れることは精神に大きな負担がかかります。一日に数回程度が限度とされています」


 カンガエロは己の内に宿った新たな力に戸惑いを覚えた。アテナイでは、知識は対話と思索を通じて得るものであった。他者の魂の記憶に直接触れるなど、想像もできなかった。これもまた、この世界特有の摂理なのだろうか。

 カンガエロは自分の内に宿った新たな力に、畏怖の念を抱きながらも、哲学者としての好奇心を感じていた。


「壁に貼られたあの羊皮紙のようなものは、何なのでしょうか」


 カンガエロが問いかけると、受付の女性は丁寧に説明を始めた。


「あれは『クエスト』と呼ばれる依頼書です。仕事の依頼を可視化し、冒険者たちが自由に選択できるようにしたものです」


「仕事の...選択、ですか」


 カンガエロは首を傾げながら、掲示板に近づいた。そこには確かに、様々な依頼が並んでいる。一枚の紙に目を留めると、王立生物調査機関からの依頼が記されていた。迷宮樹海の深部に出現した新種モンスターの生態調査。経験豊富な冒険者パーティへの同行者として、観察眼と記録能力を持つ賢者を募集している。報酬として50枚の金貨を約束する。


「これほど...詳細な仕事の説明書を見たことがありません」


「当然です。命に関わる危険を伴う仕事もありますから。だからこそ、どのような技能が必要で、どの程度の危険が伴うのか。すべてを明確にしているのです」


 カンガエロは複雑な思いで羊皮紙を見つめた。アテナイでは、このような実務的な契約書さえ、低俗なものとされていた。しかし、この世界では違う。知識も、技能も、すべてが明確な形で示され、評価される。


 その時、カンガエロの意識に異変が起きた。目の前の空間が歪み、広大な図書館のような空間が現れる。無限に続く書架。しかし、そこにあるのは本ではない。揺らめく光の粒子のような存在。それは人々の魂の記憶だった。


 その光の一つが、まるで呼応するように彼の方へと近づいてくる。カンガエロの意識に、その光が触れた瞬間。彼の精神は一瞬にして、その魂が生きた時代と場所へと引き込まれていく。


 書斎。机上には幾つもの原稿が広げられ、ろうそくの明かりが揺らめいている。一人の哲学者が、深い思索に沈んでいる。その魂の記憶は、長年の思考の軌跡とともに、カンガエロの意識に流れ込んでくる。


 "Gedanken ohne Inhalt sind leer, Anschauungen ohne Begriffe sind blind"

(内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である)


 その言葉は、イマヌエル・カントの魂からの響きだった。『純粋理性批判』執筆時の記憶。思考と経験、理論と実践の関係性について、徹底的に考え抜いた瞬間の記憶を、カンガエロは追体験していた。真の認識は、思考と経験の相互作用からのみ生まれるという深い洞察が、彼の心に染み込んでいく。


 意識が現実に戻ると、カンガエロは深い衝撃に打ちのめされていた。これが『叡智の書庫』の力。単なる言葉の理解ではない。その魂が到達した真理への道筋そのものを、直接的に体験する力だった。アテナイの哲学では想像もできなかった、知への新たな扉が開かれたのだ。


「これこそが、私の探すべき答えなのかもしれない」


 カンガエロは依頼書を手に取った。アテナイで培った観察眼と分析力。そして、この世界で新たに得た能力。それらを組み合わせることで、新たな地平が開けるのではないか。


「真理とは何か」


 かつてソクラテスに投げかけられた問いが、今、異なる形で彼の心に響く。真理は書物の中にだけあるのではない。実践の中にこそ、新たな知が眠っているのかもしれない。

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