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第10話『慈愛』

「緊急捜索依頼:連続失踪事案の調査」


 ギルドの掲示板に貼られた一枚の羊皮紙が、カンガエロの目を引いた。三ヶ月間で七名の冒険者が消息を絶ち、未だ手がかりすら得られていないという。報酬として50枚の金貨が提示され、事態の深刻さを物語っていた。


 依頼を受けたカンガエロたちは、ギルドの資料室で情報収集を始める。町の住人たちから得られた証言を丹念に分析していく。


「失踪者たちには、ある共通点がありました」カンガエロは記録を整理しながら語る。「酒場の主人の証言では、一人はパーティからの除名直後。昇級試験の失敗で深く落ち込んでいた者や、種族差別に苦しんでいた者もいました」


「旧市街の遺跡区域に失踪者の目撃情報が集中しているのも気になります」アウローラが地図を広げる。「特に、この噴水広場を中心とした範囲で発生しているようです」


 二十年前の大地震で甚大な被害を受けた旧市街。住民たちが新市街へ移住して以来、この地域はモンスターの住処となっていた。しかし近年、ここで発見されるモンスターたちが研究者たちの注目を集めている。通常とは異なる進化を遂げた新種の発見が相次いでいたのだ。


「王立生物調査機関は、ここを『変容の谷』と呼んでいます」リュシアが資料を示す。「先月も『ロジックウィーバー』という珍しい種が見つかりました。通常のモンスターより遥かに高い知能を持つそうです」


 カンガエロは深い思索に沈む。失踪者たちに共通する精神的な脆弱性。そして、特異な進化を遂げたモンスターたち。二つの事実が、彼の中である推測を導き出す。


「もしかすると、人の心の弱みに付け込むタイプのモンスターかもしれません」


 カンガエロは静かに仲間たちを見つめた。リュシアの瞳には、いつもの純粋な探究心が宿っている。アウローラは冷静な視線で状況を分析しているようだ。少なくとも今は、二人とも平常な精神状態を保っているようだった。


「調査を始めましょう。ただし、互いの様子には十分注意を払う必要がありますね」


 石畳の道を進むにつれ、街並みは徐々に変わっていく。商店や民家が並ぶ通りから、放棄された建物が目立つ地域へ。二十年という時の流れは、かつての繁栄を忘却の淵へと押しやっていた。


 広場へと続く通りに入ると、空気が変わった。風は止み、音も遠ざかっていく。まるで街全体が息を潜めているかのようだ。


「あそこです」アウローラが前方を指す。


 苔むした石像たちに囲まれた円形の広場が、その先に広がっていた。中央の噴水は既に水を失い、ただの石の廃墟と化している。しかし、その佇まいには不思議な威厳が残されていた。


「誰かいる...」


 リュシアの声に、三人は足を止める。噴水の縁に、一つの人影が見える。薄い白の衣をまとい、どこか気品のある姿だった。


「お待ちしていました、シレーネと申します」


 声は優しく、深い共感に満ちている。だが、完璧な均整を持つその美しさは、理想の人間の姿を数式のように組み立てたような不自然さがある。


「あなたがたの心の中にある痛みが、私にはよく分かります」シレーネは微笑む。


 その言葉は、まるで聞く者の心の奥底に直接響きかけるかのようだった。


「混血者として受けた差別、理解されない孤独。それらは、あなたの魂に深い傷を残しているのですね」


 リュシアの瞳が、かすかに潤む。「はい。はい、その通りです」


 カンガエロは生体分析を続けていた。シレーネの脳構造が、通常の生物とは大きく異なることが分かる。言語中枢の異常な発達、共感を示す部位の特殊な構造。そして、その瞬間、彼は恐ろしい事実に気がついた。それは捕食のための器官だった。


 シレーネの口が、人体の限界をはるかに超えて裂けていく。無数の牙を持つ巨大な裂け目が、リュシアに向かって伸びる。


 矢が空を切った。アウローラの放った矢が、シレーネの体を貫く。異形の姿が後ろに弾かれ、リュシアは地面に倒れ込んだ。


「大丈夫ですか!」アウローラが駆け寄る。リュシアは震えていたが、かすり傷程度で済んでいた。


 その時、『英知の反響』が発動する。スピノザの魂が近づき、『エチカ』執筆時の深い思索が流れ込んでくる。


「一つのものが同時に善であったり、悪であったり、そのいずれでもなかったりすることがある。例えば、音楽は憂鬱な人には善であるが、喪に服している人には悪であり、耳の聞こえない人にとっては、善でもなく悪でもないものである」


 カンガエロは、シレーネの倒れた姿を見つめる。これまでも、人を欺き感情を餌として生きてきたのであろう。


 シレーネの存在は、人間という種の特権性を問い直す契機となる。私たちは自らの価値観を絶対的なものとして扱いがちだが、自然の全体性から見れば、それは一つの在り方に過ぎない。


 スピノザが指摘するように、「善い」「悪い」という判断は、物事そのものの性質ではない。例えば、私たちは毒蛇を「悪」と呼ぶかもしれない。しかし、その毒は蛇にとって生きるための必要な能力であり、時には新薬の開発にも使われる。つまり、善悪の判断は、その物事が「誰に」「どのような」影響を与えるかによって変わるのだ。


 シレーネもまた同じだ。人間の感情を糧とする彼らの能力は、人間にとって脅威となる。しかし、それは彼らの種にとって必要不可欠な生存の手段であり、生命の多様性という観点からすれば、自然が生み出した一つの驚くべき適応なのかもしれない。


 このことは、より根源的な問いを私たちに投げかける。人間の知性が真理の探究を目指すのに対し、シレーネの知性は欺瞞に特化して進化した。しかし、この『真理』や『欺瞞』という概念自体、人間的な価値観に基づく区別ではないだろうか。自然の必然性の中では、これらは等しく存在の様態なのかもしれない。


 それでもなお、私たちは自らの存在を維持し、発展させていかねばならない。ここに実践的な判断の必要性が生じる。しかし、その判断は絶対的な善悪の基準によってではなく、存在の本質についての深い理解に基づいてなされるべきなのだ。


 リュシアが静かに立ち上がり、カンガエロの横に並ぶ。彼女の目には、もはや以前のような迷いはない。


「私たちはつい、自分の物差しだけで物事を判断してしまいますね」彼女の声には、新しい気づきが込められていた。


 カンガエロは頷く。シレーネとの出会いは、彼らに大切なことを教えてくれた。生きとし生けるものには、それぞれの生き方がある。私たちにとって危険なものであっても、それは相手にとって必要な能力なのかもしれない。大切なのは、ただ善い悪いと決めつけるのではなく、その存在が持つ本質を見極めることなのだ。

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