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第1話『アテナイの栄光』

 アテナイのアゴラに人だかりができていた。


「神々が定めた秩序こそが、ポリスの基盤なのです」


 若き哲学者カンガエロの声が、白大理石の柱の間に響く。彼は深い紫の衣をまとい、聴衆の前で優雅な身振りを交えながら、自らの教えを説いていた。朝日に照らされたアクロポリスの丘を仰ぎ見るようにして、彼は言葉を続ける。


「アテナイの栄光は、この神聖な秩序のもとに築かれました。私たちがなすべきことは、この調和を理解し、これを守ることなのです。アレテー、すなわち人としての徳とは、この神聖な秩序の中で与えられた役割を完璧に果たすことに他なりません」


 聴衆の中には、裕福な家の若者たちの姿も多く見られた。彼らはカンガエロの言葉に熱心に耳を傾けながら、時折うなずいている。


「故に、アテナイの繁栄は、この秩序を理解し実践する私たちの手に委ねられているのです」


 カンガエロの言葉が終わるや否や、賛同の声が沸き起こった。その瞬間、群衆の中から一つの声が響く。


「アテナイの繁栄とは、いったい何なのでしょうか」


 質素な衣をまとい、独特な容貌を持つ男が、群衆の中から姿を現した。ソクラテスである。アテナイの市民たちが噂に聞き、時に畏れ、時に嘲笑うあの男だ。カンガエロは僅かに眉をひそめた。


「それは明白ではありませんか。このポリスの富と力、そして市民の幸福です」


「では、富とは何か。力とは何か。そして、幸福とは何なのでしょう」


 ソクラテスの問いは、まるで静かな波紋のように広がっていく。カンガエロは答えようとして、一瞬言葉に詰まった。


「私たちはそれを知っているのです。神々の恩寵により、私たちはそれを理解しています」


「本当にそうでしょうか。デルポイの神託は、私を最も知恵ある者と呼びました。なぜだと思いますか」


「あなたが深い知恵を持っているからでしょう」


「いいえ。それは私が、自らの無知を知っているからにすぎません。しかし、あなたは自らの理解を疑う余地すら認めないのですね」


 議論は白熱し、ついには激しい口論へと発展した。聴衆たちの間にも、動揺が広がっていく。カンガエロの弟子たちの中には、困惑の色を隠せない者もいた。それまで揺るぎないと思っていた師の教えに、一筋の亀裂が入ったかのようだった。


「私の説く秩序に誤りはない!」


 カンガエロが声を荒げた瞬間、ソクラテスの目が鋭く光った。


「カンガエロ!」


 その声は、アゴラに轟き渡った。


 月が昇り、星々が輝きを増す頃。カンガエロは自室で羊皮紙を広げていた。先ほどのソクラテスとの対話が、まだ頭から離れない。


「私の説いてきたディダスカリアとは、何だったのか」


 彼は立ち上がり、窓辺からアクロポリスの丘を見上げた。アテナの神殿に月光が映え、その姿は幻想的な輝きを放っている。これまで、彼は真理を教えることこそが、師の務めだと信じてきた。しかし―――。


 弟子たちの動揺した表情が、彼の脳裏に浮かぶ。彼らの目に宿った疑問の色が、今までになく鮮やかに思い出される。もし、真理への道が一方通行の教えではなく、共に歩む対話の中にあるとしたら。


 カンガエロは決意した。明日からは、弟子たちとの関係を改めよう。真理は押し付けるものではなく、共に探求するものなのかもしれない。そう考えた矢先、背後に気配を感じた。


 振り返る間もなく、冷たい刃が背を貫く。最期の瞬間、彼は自分の弟子たちの姿を見た。その目には、真理を求める者の冷徹な光が宿っていた。


「真理とは...」


 言葉は闇に消えた。


 意識が戻った時、カンガエロは見知らぬ通りに横たわっていた。頭を上げ、周囲を見渡す。見慣れない建築様式の建物が立ち並び、空気さえも異なって感じられた。


「これは...ペルシャか?いや、それにしては様式が違う」


 彼は体を起こし、よろめきながら立ち上がった。通りを行き交う人々の装いは、どの都市国家のものとも異なっている。全身を鎧で覆った者、不思議な色彩の衣装をまとった者、中には動物の特徴を持つ者さえいる。


「おい、道を空けろ」


 背後から声がかかった。振り返ると、荷車を引く男が立っている。その言葉は、アッティカ方言でもイオニア方言でもない。カンガエロは困惑しながら、丁寧な身振りで謝意を示した。


「私はアテナイの...」


 言葉を続けようとしたが、男は首を傾げるばかり。カンガエロはドーリス方言でも試みたが、反応は変わらない。この異国の地では、ギリシャの言葉が全く通じないのだろうか。


 カンガエロは立ち止まり、通りの喧騒に耳を傾けた。商人たちの呼び声、値段の交渉、商品の説明。一つ一つの言葉は異質でありながら、その使われ方には何か規則性があるように感じられる。


 ある店先では、商人が手に持った果物を指さしながら、同じ言葉を繰り返している。客が財布を取り出すと、また別の決まった言葉が交わされる。カンガエロは、アテナイの市場で見た光景を思い出していた。形は違えど、人々の交流の本質は変わらないのかもしれない。


「面白い...まるで子供のように、一から言葉を学んでいる」


 その気づきは、彼に新鮮な喜びをもたらした。アテナイでは、彼は常に「教える」立場にいた。しかし今、彼自身が未知の言語を、まさに幼子のように、一つ一つ理解していく立場になっている。物を指差し、相手の反応を観察し、少しずつ意味を把握していく。その過程自体が、新たな知の獲得の形なのではないか。


 遠くに見える巨大な剣のような建物に向かって歩きながら、カンガエロは考えを巡らせていた。これは神々の怒りを買ったのだろうか。それとも、弟子たちに対する裏切りへの罰なのか。しかし、目の前の光景は神話で語られるいかなる場所とも異なっている。


 通行人の会話に耳を傾けていると、「ギルド」という言葉がしばしば聞こえてきた。目の前の巨大な建物を指し示す際に使われているようだ。


「冒険者」「モンスター」「魔法」...次々と耳に入る未知の言葉に、カンガエロは眉をひそめた。アテナイの哲学では説明のつかない概念ばかりだ。そして徐々に、ここが単なる異国の地ではないという事実が、彼の心に重くのしかかってきた。


「私の知る世界の論理が、ここでは全く通用しない...」


 その認識は、哲学者としての彼の誇りを大きく揺るがせた。しかし同時に、かつてソクラテスから投げかけられた問いの意味が、新たな形で心に響き始めていた。

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