ニキビは青春の証などではない
ニキビやニキビ跡に悩む青年のリアルな苦悩をユーモアを交えて一人称で語っていく
「何が青春の証だ!」私は今にも叫び出しそうな声を心の中で押し殺し酷く項垂れていた。何を隠そう私は青春の主役である。いや、それは開き直ったゆえに口から流れ出した乾いた冗談である。そう、私はニキビという病を患っているのであり、ついでにニキビ跡というものもおまけについてきている。全くもっていらないおまけである。私は自分の肌に浮かぶ赤く痛々しい跡(痛くはない)を鏡越しに眺め先刻のことを思い出していた。
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私はこの世に生を受けた際、それは大層可愛らしい赤子でありその愛らしさで当時の夫婦間にあったマリアナ海溝並みの深い溝を一瞬にして光で照らしその溝を愛で満たし家庭円満をもたらしたといわれている。それが今はなんて有様だろうか。十八歳まで立派に育った私の健康的な体躯とは裏腹に顔の肌はニキビとニキビ跡で荒れ果て農作物も育たぬ死地のような具合でいつ終焉を迎えてもおかしくはないエネルギーが枯渇した未来の地球のようでもあった。また『羅生門』に登場する下人もびっくりするほどであろう。毎朝鏡の中の自分と顔を突き合わせる度に気が滅入り毎晩眠る度に肌が綺麗になり有頂天になる夢を見ては目覚めて鏡を見ると現実を思い出し有頂天から転落するといったループをしていた。学校では比較的肌の綺麗な友人が「ニキビできちゃった」と月面クレーター顔の私の前で嘆くためどんな反応をすればよいか困ったものである。「私の顔を見ろ!」とでも言って慰めてやればいいのだろうか。逆に私が慰めてもらいたいくらいだがあまり自分のニキビについて触れてほしくないためやはり遠慮しておこう。仮にどんな願いも叶える七つの龍の玉が実在していたら真っ先に「ニキビとニキビ跡を消して二度とニキビができないキレイなモチモチ肌にしてくれ!」と図々しく頼むつもりである。しかし、ある日私が鏡を見て自分の肌の具合を確認していると母がやってきてこう言い放ったのである。
「ニキビなんて青春の証じゃない」
私はその言葉を聞き今まで弱々しく懊悩していたことを忘れ、心の中の活火山が今この瞬間にもマグマを解き放たんとするのを感じた。なぜなら単純明快、ニキビが青春の証だということは全くもっての嘘であり一時的な慰みの言葉でしかないことを私は知っていたからである。そもそも青春の王道をひた走るクラスの快活な人気者たちが顔に異物を浮かべて自信満々に文化祭の出し物を決めるために最前に立つ様を見たことがあるだろうか。また不純異性交遊とも呼べるような距離感で今にも唇を重ねんとするラブコメのクライマックス真っ只中の男女に汚肌の人間はいないだろう。少なくとも私は見たことがない。万が一に私に彼女なるものができたとてキスなんて到底できないであろう。それは当然私の肌が汚くて近づくと見苦しいからである。つまり、青春とニキビは切り離されて然るべきものでありニキビを「青春の証」と躊躇なく表現するのは表現の自由が保障されていたとしても私が許せぬ。
私はそんな母の辛辣な言葉に怒り心頭に発した。
「青春なわけあるかい!」
「そんなに怒ることじゃないでしょう」
母は喚き散らかす幼子を躾けるような口調で言ったが私はやはり納得がいかず憮然とした表情を湛えた。
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「青春の証…」母の言葉が頭の中で自動的に反芻したがやはりニキビを患った私にとってこの表現は侮辱のようにも思えた。なぜならニキビが顔に存在することによって自信の喪失につながり青春を謳歌するための障害物になることは確実だからである。この肌のせいで周りが自分から遠のいていく可能性もあり、この忌々しいニキビは今後の学校生活においても暗い影を落とすことであろう。私はニキビという影がもたらす視界の先に広がる闇の道を前に足が竦んだ。そもそも我々人類はなぜこのようなニキビという不要の長物と付き合っていかなければならないのか、神は人類を設計する際に何を思ってニキビというプログラムを仕込んだのか甚だ疑問である。もちろん先ほどの母の発言は私を気遣ってくれていたことは阿呆な私でもさすがにわかってはいるがやはりこの「青春の証」という表現がどうにも気に入らないのである。そもそも青春というのは私の中の浅はかなイメージでいうと学友と放課後にカラオケに行って夕飯にはラーメンを啜り帰りに河川敷で夜の星々を眺めながら恋バナに耽けったり恋人と夏祭りに行って花火を見ながら手を握り互いの愛を確認し合うものであると思われるがそんなキラキラした真の青春の証に対してニキビを同列に扱うということは寧ろ真の青春に失礼である。自分でも大変不本意ながら「青春の証」の対になる言葉を作るとすればそれは「怠惰の証」であろう。
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私とて好きで肌を汚してきたわけではなく体質的なものが半分以上の理由を占めているのであろうと推測している。三割くらいは生活習慣の乱れかもしれないが。そのためニキビを「怠惰の証」と断言して定義付けてしまうのも憚られたが、私に関しては自身の不摂生である可能性も否定できないほどに心あたりがあるためご容赦いただきたい。親に貰った世界に一つだけの大事な顔を汚したことは両親の顔に泥を塗ったも同然であると自分を責め立て一人涙に濡れる夜もあった。息子がこんな肌の有様では親も顔が立たないだろう。しかしこんな私でも肌を労る努力は多少しているのである。例えば肌を保湿するために液体をペタペタ顔に塗りたくって毛穴の安寧を保とうと躍起になっていたがニキビは減ったら別の箇所に複数できてを繰り返し「一歩歩いて二歩下がる」を肌で体現したのであった。
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このようなニキビの前進後退は長きに渡り私の生活に害をもたらし毎朝鏡の前で一喜一憂する日々であったが最近では出ては引っ込んでを繰り返していた箇所がニキビ跡として残るようになり、それはまるで子どもが遊び回って後片付けをせずに散らかしたままの無邪気な跡であるようにも思われてきた。これらの無邪気な跡を同級生に「梅ねり」と揶揄された際には憤慨の念を露わにしかけたが、紳士として踏みとどまった。
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ここまで私のニキビに対する恨みつらみを語ってきたが、そろそろ鬱陶しい頃合かもしれないため最後に言い残しておきたいことがある。それは「ニキビは青春の証ではない」ということである。ここで今一度断言しておく。こんなことを言う輩がいたらそれはニキビで悩んだことのないやつの戯言であると捉えてよいであろう。「ニキビができたことのない者だけが石を投げよ」という間違ったヨハネの福音書の一節を説いて回る輩もいるであろうため、その場合は怒ってもよい。もし貴方がニキビに悩んでいるならば我々は同志だ。同志諸君の肌の調子が快方に向かうことを祈っている。では。